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整形とルッキズム
こんにちは。
チオシアン酸カリウム( @KSCN_ )です。
Twitterで美容・整形垢に入り浸っていると、整形という言葉は日常過ぎて、特筆することもないように思っていました。
しかし、この前、親友と初めて、私の整形についてしっかり話す機会があり、整形や、私の外見に対するこだわりについて、改めて考えました。
正直、私にとって、整形はそこまで大きなものではありません。
寧ろ、まともな整形は全切開だけなのに、このように大口を叩いていることが、他の整形経験者の方に対しては少し恥ずかしくもあります。
しかし、自分のために、整形に至る経緯と、ルッキズムに対する私の考えをまとめてみます。
人の考えは変わりますし、あくまでも2020年6月現在の私の考えですが、記録しておきます。
整形に関わる気持ちの変化
外見を気にしていなかった頃
生まれたときから、自分の外見に好感を持った記憶はありません。
しかし、大体の人はそうだと思っていました。
外見を褒められることはなかったけれど、だからといって不利益を被った自覚もなく、特に外見に対して悩むこともありませんでした。
小学生時代は内面(成績)で評価されていたので、それで満足していたのでしょう。
しかし、中学校に進学し、自分より頭が良い人がたくさんいる世界で、何の取り柄もない自分に気付き始めます。
ルッキズムに気付いた18歳
ひょんなことから、高校でスクールカーストの一軍と呼ばれる人々と行動を共にすることになり、自分は周りと何か違うこと、自分は何らかの理由で差別されていることに気付き始めました。
体験した差別の例
嫌なことは忘れてしまうのであまり覚えていないのですが…。
友人と並んでいるとき、友人の方を指して「可愛い方の子が~」と言われた。
同じく、目の前で友人にだけ「(友人)さんは可愛いから」と言っていた。
私のミスで友人に迷惑をかけてしまったとき、多くの人が友人だけを心配し、私のミスの理由は聞きもせず責められた。
「(私)とペアになるのが嫌だ」という会話を、私の見えるところでされた。
厳しい生活指導の先生が、友人に「次からやめなさい」とだけ言ったのを見た。
(普段はその場で直させ、反省文を書かせていた)
このような経験の相手、全てに当てはまるのが、『スクールカーストが私より上位である』、そしてそれはつまり『外見が良い』、『リーダーシップやコミュニケーション能力がある』、『成績が良い』などの要素を複数持つ者でした。
少なくとも当時の私にはそう見えました。
そして、『外見が良く』、『コミュ力があり』、『頭が良ければ』、こんな惨めな思いをせずに済む、被差別者から抜け出せると思うようになりました。
その要素の中で、私に最も足りていないのが外見だと思いました。
もちろん、外見だけが悪かったわけではありませんが、最も目についたのが外見でした。
また、その前後に、オタク垢に流れてきたRTで、美容垢界隈やその周辺を知りました。
スト値という言葉は当時知りませんでしたが、その概念を知りました。
外見は数値化され、ジャッジされるものなのだと。
自己肯定感最低だった19歳
ルッキズムに気付いてから、自己肯定感が非常に低くなっていきました。
誰かが何か話すだけで、(私のことかな、また私のこと笑っているのかな、馬鹿にされているのかな)と思っていました。
『他人から見た自分が全て』、『他人に絶対に嫌われたくない、馬鹿にされたくない』という思いが非常に強くありました。
自意識過剰かつプライドが高いまま、自己肯定感だけ欠如したからだと思います。
男性と話すことが怖い
特に、男性に対して、まともな素振りを見せなければ、嫌われて馬鹿にされる、という強迫観念がありました。
これはあくまでも私の感覚ですが、女性の方が、直接悪口や苦言を呈してくることがなく、男性の方が、目の前で直接言う傾向があると思っていたからです。
このときは、男性と話すのがとても怖かったです。
私のコンプレックスを直接刺し殺してきそうだったからです。
セクハラすら『嬉しい』
とても怖いし気持ち悪いのですが、当時はセクハラをされても『嬉しい』と思っていました。
(セクハラされる程度には、私は人間として見てもらえているのだ)と思っていました。
もちろん、本当に好きな相手にそのようにするわけがないことも分かっていましたが、人間として扱われていることだけで、嬉しかったのです。
本当に、頭がおかしいし、恥ずかしいです。
高校時代のルッキズムがトラウマだった私は、ブスは嫌われて、人間扱いすらされないと思っていたのですが、大人になると一概にそうではありませんよね。
女だったら誰でも良いという人も、たくさんいることを知りませんでした。
しかも、それを自分の感情で黙認することで、助長してしまったことが、自分でも許せません。
褒め言葉は馬鹿にされていると感じる
自己肯定感が余りにも低いと、褒め言葉すら馬鹿にされているように聞こえます。
褒められることが信じられないからです。
褒められても、そんなことあるわけがないし、その場繋ぎのためなのがあからさまに感じるのです。
例えば、自分はタガログ語を全く知らないのに、「タガログ語上手いよね」と言われたら、何を言っているのか分からない、と思いませんか。
そういう気持ちです。
頓珍漢なことを言われているようなのです。
最早、褒め言葉の可能性があることすら思い当たらないのです。
セクハラされて人間扱いされたと思うのに、褒め言葉は馬鹿にされていると思うのは変ですよね。
行動と言葉だから捉え方が違ったのでしょうが、本当に黒歴史です。
整形した20歳
整形後は、『他人から見た自分が全て』、『他人に絶対に嫌われたくない、馬鹿にされたくない』とは思わなくなりました。
褒め言葉に感謝できるようになった
整形後に、親友に「私は誰にも可愛いって言われたことはない」と言ったところ、「私はあなたに可愛いって言ったこと、絶対ある」と言われて、はっとしました。
そのときは、褒め言葉なんてあり得ないという気持ちより、親友の言葉を信じる気持ちが勝ったのです。
とても失礼なことをしていたと気付きました。
せっかく言ってくれた言葉たちを無視していたのだと、申し訳なくなりました。
それからは、褒め言葉に対して、とにかくその言葉を口に出してくれた心遣いに、感謝できるようになりました。
褒め言葉を受け取ることができるようになりました。
他人ウケより自分ウケ
万人から好かれることは不可能だと実感しました。
外見も、万人が見て私を綺麗だと思うなんて、不可能なのは明らかです。
整形した目が私は大好きですし、この目にかけたこだわりや愛を知っているのは私だけですから、他の人に何と言われようと、私は自分の目を可愛いと思います。
私の目を、顔を、外見を、私を、背景まで含めて完全に正確に評価できるのは私だけだと分かったのです。
他人からの評価より、自己満足の方が重要なのだと分かりました。
傷付かなくなった
今は他人に何か言われても、あまり不快ではありません。
目の前でブスと言われても、可愛いと言われても、ただ、(あなたにはそう見えるのね)と思います。
もちろん、ブス扱いをされて傷ついた過去はありますから、ブスと言うような人は、人を傷つけかねない発言を自覚していない、考えの浅い人なんだと思うし、今後は付き合わないようにしますが。
自分は自分、他人は他人の考えがある、というだけです。
自分を許すことができた
自分の目が嫌で、どうしたらましになるのか考えて、そのためには何の施術をすべきで、どのクリニックのどの先生に頼むのか、カウンセリングを周って考えて、お金を払って、リスクを覚悟で手術を受けて、痛みに耐えケアをしてダウンタイムを乗り越えて。
(それだけ頑張って完成した目、まあそこそこ可愛いじゃん)と思えたのです。
あれだけ自己肯定感が最低だった私も、少しだけ自分を許すことができました。
自己肯定することができるようになりました。
やはり私には人権があって良いし、人として普通に、尊重されて生きて良いと思えました。
自分を大切にできるようになりました。
自己実現を通して自信がついた
整形の過程で、自己実現の喜びを知りました。
自分がなりたい自分に向かって、自ら足を踏み出したという自負があります。
自分を見つめて、目指す先を自ら選択し、責任も全て自分で取る覚悟をしました。
それが、自己実現したのだという自信になりました。
余談:整形は努力か
整形は美容院で髪を整えることと変わらないと思います。
お金で技術を買っているだけ、と言われそうですが、お金を払い、事前調査をして、術後の痛みやリスクに耐えることは努力にならないのでしょうか。
お金を払って美容院に行って髪を綺麗にすることは、外見を良くするための努力にはならないのでしょうか。
……しかし、ここまで書いて悩んでしまいました。
欠点を治すという意味で整形を捉えた場合、努力とは言えないかもしれません。
例えば、病気を治すために手術を受ける場合、手術が努力とは思いづらい気がします。
手術を受けるか選択できる場合、手術を受ける選択をすることは勇気がいるかもしれませんが、それでも努力とは違う気がします。
ただ、生きるために必要だから、手術を受けるのだと思います。
悪いところを治すことが整形である、と解釈すると、整形は努力とは言えないのかもしれません。
これから
今は、外見も内面も、もっと自分が好きな自分になりたいです。
また、他人から見た自分はあまり気にならなくなりましたが、周りの人の『お荷物』にはならないようにしたいです。
私の周りには、素晴らしく、素敵な人たちがたくさんいるので、私と一緒にいるのを見て「(友人)は(私)のような引き立て役を連れて歩くような人だ」と思われないようになりたいです。
隣を歩いても、外見内面ともに恥ずかしくない人間になりたいです。
自分の中に揺るぎない価値観を持ち、それに対して努力していきたいです。
質問への回答
ここからは、親友からもらった質問に答える形で、私の考えをまとめます。
Q. なぜ整形したいのか?
私が嫌な思いをせず、人として普通に尊重されながら生きるには、外見を良くすることが必要だと思ったから。
整形という手段を使う理由は、今のところ施術済みの二重に関してなら、アイプチが不便だと思ったから。
余談:アイプチについて
ちなみに、アイプチの不便だと思った点は、
時間がかかる
(合宿などでは、風呂の後にまたアイプチしなければならない)日によって思い通りの二重にできないときがある
アイテムの相性によってできないアイメイクがある
瞼を張り付けるので目が閉じられない
(折り込みタイプは使用できない瞼だった)そのため、うたた寝をすると白目になり、寝られない
瞼が伸びる
時間が経つと剥がれてくる
アイテムを購入し続けるのに費用がかかる
などです。
そういえば、アイプチ時代に、夕方になって二重が剥がれてきたときに、友人に「目が腫れているの?大丈夫?」と言われたのはすごく怖かったです。
友人は嫌味を言うような人ではないし、心配してくれただけなので、怖がること自体が失礼なのも分かるのですが、『他人に言及されるくらいおかしな目になっているのだ』という事実が辛かったし、その顔面でいる自分が恐怖でした。
Q. 一重が嫌な理由は?
アイラインを引いても目を開けたら隠れるから
ピンクや赤系のアイシャドウを使うと腫れているように見えるから
まつ毛に瞼が当たるので、ビューラーしても意味がないから
つまり、アイメイクが思うように楽しめないから
瞳に光が入らず、虚ろに見えるから
目を開けても瞼が被るので、目が小さく見えるから
単純に二重の方が好みだから
など。
(奥二重ならではの理由もありますが)
Q. 一重を個性だと思うことはなかったのか
なかった。不便だから。
※ここまでたくさん一重の不満点を書きましたが、あくまでも私の考えです。
一重が好きな人、一重を個性だと思う人ももちろんいます。
余談:天然二重の人の感覚
これは嫌味ではなく、一重に近い奥二重と二重の両方を経験した私の、単純な感想なのですが。
二重に整形したことを元々二重の人に言うと、ほぼ確実に「一重で何が嫌だったのか」と言われるので、ちょっと驚きました。
確かに、私も、奥二重時代に二重の悩みやコンプレックスは想像できなかったし、経験しなければ分かりませんよね。
元々二重で、一重のデメリットがよく分からない、という人は、是非「一重 悩み」「一重 コンプレックス」などで検索すると、他にもたくさん出てくるので見てほしいです。
Q. 何で急いで整形したいのか?
社会人になってからでは、整形する時間が取れないと思うから。
社会人になってからダウンタイムを取るのは、私の望む働き方では無理だと思うから。
Q. 手術は怖くないのか?
いいえ。
コンプレックスがある分、思い通りに手術をしてもらえるのか不安だし、手術中の力の入れ具合でも術後の腫れが変わるので気を使うし、肉を焼き切る臭いは嫌だし、手術中でも麻酔が切れたら痛いし……緊張するし怖いです。
それでも、私にとってはメリットの方が大きいです。
Q. 留学は辞退して整形する理由は?
留学するより整形したいから。
留学で見込める、言語力の向上や社会経験などのメリットより、整形するメリットの方が、私にとっては大きいから。
Q. 外見に対する自信と内面に対する自信について
外見に対する自信は、ここまで読んでいただければ伝わったと思いますが、ないです。
でも、整形箇所(二重)には自信があります。
お金をかけて、こだわりにこだわった大好きな二重なので。
可能な範囲でなりたい自分像はありますが、それを実現したところで、自信を持てるかは分かりません。
自分の外見を好きになれるでしょうか。
学生時代のトラウマを超えて、外見に自信を持てる根拠になるような経験が、これからできるでしょうか。
分かりません。
対して、内面に対する自信は、結構ある気がします。
自分の中の美学があるし、それに則って生きる自分が好きです。
これは私が、内面に関しては、自分らしく、自分の好きな自分で生きた上での成功体験があるからです。
例えば、スクールカースト一軍の人に、多数決の選挙で勝ったことがあります。
このときは、私の熱意や実績が、正当に評価されたと思えました。
また、外見に対して述べた『伸びしろ』が、内面に関しては無限だと思います。
外見を良くすること、特に整形は、大きなリスク、時間、労力やお金などのコストを伴います。
けれど、内面を良くすることは、それよりはリスクやコストが少ない気がします。
ルッキズムについて考える
ルッキズムとは
外見的な美醜を重視して人を評価する考え方。容姿による差別をいう。
Construction of a standard for beauty and attractiveness, and judgments made about people on the basis of how well or poorly they meet the standard.
美しさと魅力の基準の創造、そして人々がその基準をどれだけ満たしているか、いないかに基づいてされる判断。
実際、外見が良いほど幸福であるという研究結果や、人間は外見が良い人を優遇するという研究結果があります。
これは、健康な(問題のない)遺伝子を探すための、人間の本能でもあります。
私が感じたルッキズムも、仕方のないものと言うこともできるのです。
「可愛くなりたい、綺麗になりたい、かっこよくなりたい」と言う思いは一般的ですが、役作りでもないのに「ブスになりたい、汚くなりたい」と思ったことはありますか。
ルッキズムが存在する確固たる証拠ではないでしょうか。
ルッキズムは悪か
では、ルッキズムはいけないことなのでしょうか。
排除すべき思想でしょうか。
引用したように、ルッキズムが『考え方』であり『基準の創造と判断』であるなら、私はいけないことでも、排除すべき思想でもないと思います。
個人の好みであり、一つの価値観だと思います。
「好きなタイプは?」という質問に対して、イケメンが良いという人もいれば、優しい人が好き、という人もいるように、一つの嗜好の名前だと思います。
一方、ルッキズムの定義が『容姿による差別』であるなら、それはいけないし、なくなるべき思想です。
私は被差別者の自覚がある者として、同じような思いを、他の人にさせるわけにはいきません。
生まれ持った外見のみで優劣をつけられるのは、前時代的で、不幸せです。
そして不幸せなのは、優劣の劣だけではなく、優もかもしれません。
美人もルッキズムの被害者
ルッキズムに関して、優劣の劣の意見はたくさん書いたので、優の意見についても、私の知る限り書いてみます。
褒め言葉の受け取り方
私は自己肯定感最低のとき、褒め言葉を理解できませんでしたが、美人も同じように感じる人がいるようです。
私も、(そんなわけないのは百も承知だろうに、何を言っているのだろう)と思っていたのですが、美人も(そんなに褒められるほどじゃないのに)と思うそうです。
この事実を知ると、外見に対する褒め言葉は、誰も幸せにしないのではないかと思えてきます。
最近は、セクハラ防止などの観点から、外見に言及することは止めようという意識になってきていますが、本当にそうした方が良いのではないでしょうか。
自分も外見に対して言及していることがあるかもしれないので、改めて肝に銘じたいです。
内面を評価してもらえない
『美人は外見を評価される分、内面を評価してもらえない』という意見もよく目にします。
例えば、「所詮外見だけ」「顔採用だ」(=だから内面は良くないだろう)という言葉などです。
また、ロス効果も該当します。
ブス側の私としては、そもそも外見で評価されないと、内面を評価されるチャンスすらない場合が多々あると思います。
なので、外見だけでも評価されているだけましだと思ってしまいます。
しかしこれは、外見を評価するという部分がルッキズムなわけです。
お互い、純粋に内面を評価されたいと思っています。
どちらもルッキズムの被害者です。
余談:ルッキズムとスクールカースト
美人もルッキズムの被害者だと分かった今、私が羨ましかったスクールカースト上位の人たちも、本当は苦しかったのかもしれません。
実際、知り合いの小学生から感じたことがあります。
その子はきっと、生まれてから可愛いと言われ続けて来ていて、スクールカーストも上位だろうけれど、『だからこそ、ずっと可愛くなければならない』というような強迫観念を少し感じました。
自ら好んでならば良いのですが、それで窮屈になってしまうのではないかと、心配になりました。
ブスから美人へ
私は、ブスは外見で差別され人権がないと思い、せめて人間扱いされる普通の外見になりたいと思ったのですが、美人も何らかの理由で人権がないと感じることがあるのでしょうか。
お互いの立場を経験することは不可能なので、議論は平行線ですが……。
個人的に、元ブスで整形や努力で美人になれる人はいないと思うので、ブスと美人を経験できる人は存在しないと思います。
整形や努力で美人になれる人は、元から美人です。
ルッキズムのない世界
『ブスが整形して外見に自信を持っても、今度は内面の乏しさに気付く』という意見がありますが、これは、ルッキズムの外側に出ること、つまり、ルッキズムのない世界で生きることだと思います。
ルッキズムのない世界、それが、内面を評価される世界です。
例えば、私が考えたスクールカースト上位の条件は、『外見が良く』、『コミュ力があり』、『頭が良い』の3つでした。
これは、最初がルッキズムの世界で生きるために必要なこと、後の2つはルッキズムのない世界で生きるために必要なことだと思います。
また、ある記事では『整形して明るくなっても、それは整形で内面まで変わったのではなく、元々持っていた性格が表層に浮かんだだけだ』という意見がありました。
これも、ルッキズムによる劣等感がなくなり、ルッキズムのない世界で自分を出せるようになったと言えるでしょう。
余談:ルッキズムのなかった1か月
私は、このルッキズムのない世界に、1か月間だけいたことがあります。
海外にいた1か月間です。
ただ、これには複数の理由があります。
ルッキズムを適用してくる人がいなかった
ルッキズムで不平等にするメリットがなかった
比較対象(同じようなアジア人の若い女)が少なかった
他の要素が強かった(顔の造形より人種)
ルッキズムを気にするほど余裕がなかった
(生活するので精一杯だった)内面が素晴らしい人ばかりで外見に目が向かなかった
差別的思想が少ない地域だった
英語力のせいで気付かなかった
滞在期間が短かった
これから判断するに、多民族国家に行く、忙しく生活する、内面が段違いにすごい人たちに囲まれる、などすると、強制的にルッキズムを忘れられるかもしれません。
ルッキズムを捨て去ることはできるか
しかしそれでも、日本で暮らしている今の私は、残念ながらルッキズムを完全に捨てることはできません。
それは、私はそもそもルッキズムを知らなかったのに、自分は被差別者だと気付かされてしまった経験があるからです。
今、「もうルッキズムなんて忘れる」と決めたとしても、またいつか理不尽な思いをしたり、差別を受けたと思ったりしてしまうのではないか、同じことを繰り返すのではないかと思います。
「いつかは、外見を気にしなかった昔のように生きたい」
これが、ルッキズムからの完全な解放でしょう。
私もそう思わないわけではありません。
けれど、きっと無理だと思ってしまいます。
ルッキズムとどう付き合うか
自分がどの世界でどのように評価されたら満足なのか、明確な目標を持つべきだと思います。
私は、ルッキズムは仕方のないものだと思ったので、ルッキズムの中で生きていきます。
だから整形をしますし、外見を良くしようと努力します。
でも、ルッキズムの中『だけ』で生きるわけではありません。
私は運良く、ルッキズムのない世界の存在を信じることができます。
内面を評価してもらった経験があるからです。
ただし、だからといって内面が完璧だとは言えません。
この記事ではルッキズムに着目していますが、もちろん、内面も直すべきところがたくさんあると思います。
だから、私は、ルッキズムで褒められずとも辛い思いをしないように、そして内面を評価してもらえるように、努力し続けたいです。
また、ルッキズムをなくすことはできなくても、ルッキズムを他人に振りかざすことがないようにしたいです。
おわりに
この記事を書くきっかけをくれた親友への私信です。
ここまで本心を言っても理解してくれた親友に、心から感謝します。
こんな素晴らしい親友と出会うことができて、私は本当に幸せです。
私は整形について、ある程度仲が良ければ話していました。
(今は、やはり偏見があり、誤解されかねないことと、私の思いを全てその場で伝えることはできないため、言わないことにしていますが)
話して良い反応をしない人とは、一緒にいてお互いに良い気持ちにはならないと思うので、離れるようにしていました。
けれど、親友には、整形について深く話して「理解できない」と言われたとしても、他の人みたいに、理解してもらえないなら離れるとは、簡単にできないと思っていました。
それだけ大好きで、失いたくない親友です。
実際話してみて、本人も整形を簡単に受け入れられるわけではない、というようなことを言っていましたが、それでも、とにかく理解してくれて、私が傷つかないようにと思いやってくれることが、どれだけ嬉しいか。
「誰もあなたを止めないし、例え誰かに何か言われてもきっとあなたは止まらないから、これから整形するときは予約取る前に相談して」と言われました。
ちゃんと守ります!
本当にありがとう、大好きだよ。
チオシアン酸カリウム( @KSCN_ )
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