道徳性の”波”

前日、親しくしている留学生がこのようなことを教えてくれた。

"personality is like a wave. "

"The change of your value it self is your personality."


彼女曰く、時間に伴って変化するのは価値観であり、その変遷こそがパーソナリティである。私達の価値観は経験を通して変化するが、一瞬たりとも同じものはない。それが”波”というものである。

私はこの考えがとても気に入った。彼女の哲学において、パーソナリティとは集団を分類する言葉ではなく、個人がもつ唯一無二の色を表す言葉だ。その独自性やスケール感、ダイナックさはまさに私の考えに欠けているものだった。

二人は自身の過去を語り合った。お互いにそれぞれが似た価値観の変遷をたどり、現在も似た価値観をもっていることが分かった。そして「私達のパーソナリティは似ているね。」と笑い合った。

さて、パーソナリィをこのような「人生における価値観の変遷」と捉えたとき、私達の道徳性に関するパーソナリティはどのように捉えられるだろう。そこで私は、次のような図を用いて考えてみることにした (独自性に魅了されておきながらカテゴライズしてしまうのは私の職業病だ) 。

「道徳性の二次元マトリクス」

道徳性とは何か。それはある意味「行動原理」と呼べるものだ。どれほど道徳性が無い(と思えるような)人でさえ、その人なりの行動原理は存在する。その行動原理は「利他的」か「利己的」か、そして「衝動的」か「理性的」かに分けられる。

サピエンシーは「衝動的で利他的な」道徳性だ。衝動的というのは、簡単に言えば30分後にマシュマロを二個食べるよりも、今すぐマシュマロを一個食べることを選択する傾向。そして利他的というのは、他人を傷つけて利益を得るよりも、自分を傷つけて利益を得る方を選択する傾向だ。私達の多くはサピエンシーをもって生まれることが分かっている。

一方、「衝動的で利己的な」道徳性はサイコパシーである。他人の幸せや不幸に関する感受性が低く、”利己的な”打算に基づいて日常的な意思決定を行う。

サピエンシーやサイコパシーに”理性”が付与されると、それぞれ異なるセグメント(功利主義とマキャベリズム) へ移動する。理性の獲得とは、時空間的に広い視点に立ち損益計算を行う能力の発達である。

理性の獲得は認知レベルで次のような変化をもたらす。第一に、価値の主体より広く見積もる。あらゆる行動は、自分にとって利益が損失よりも大きい場合(すなわち価値がある場合)に行われる。その”自分”という主体を「私」から「世界」へ拡大するものが理性だ (空間的変化)。第二に、理性の獲得により、今すぐ一個のマシュマロを手に入れるよりも二個のマシュマロを30分後に手に入れる方により大きな価値を感じるようになる (時間的変化)。

功利主義とは「最大多数の最大幸福」という言葉に表されるように、できるだけ多くの人が幸せになるような選択をとる行動原理である。

一方で、マキャベリズムは「私の最大幸福」といえるような、(時空間的に)あらゆる可能性を考慮した上で自分の幸せを追求する行動原理だ。他者を不幸にすることが”損失”として勘定されない点で功利主義とは異なる。


以上は単なる用語の説明で、これから重要になるのが「発達」の概念だ。私達がサピエンシーをもって生まれたとして、その価値観が「発達」を経てどのように変化するのか。そして、その個人差は何によって説明されるのか。

ちなみに、私は「サピエンシー→サイコパシー→マキャベリズム→功利主義」の順に行動原理=道徳性を変えてきた(と思っている )。冒頭に紹介した彼女の考えに照らせば、この一連の変化こそ私のパーソナリティであり、道徳性の”波”ということだ。

では一体、どのような経験をきっかけに私の道徳性は変化したのだろうか。そこに共通点を見出すことができれば、新たな”パーソナリティ研究”が可能となるのではないのだろうか。



(この問題に関する神経学的な考察)

「利己的→利他的」の発達において重要になのは扁桃体である。背外側前頭前皮質(DLPFC)は”道徳的責任”を表現しており、DLPFC-線条体の機能的結合を介して「他人を傷つけることで得られる利益に関する線条体内における期待値表現の減算」が行われている。私の仮説では、DLPFCによる「道徳的責任」の表現が可能となるためには、他者の苦痛手がかり(たとえば恐怖表情)を認識し、(攻撃の企図)と(苦痛による負の期待値表現)のあいだに連関が形成されている必要がある。そこで必要なのは扁桃体の機能的完全性である。

「衝動的→理性的」の発達において重要なのはDLPFCである。再びDLPFCが登場する。ここで問題なのは、上のマトリクスが”ダブり”を孕んでいるということだろう。「理性的」傾向と「利他的」傾向の間に相関関係があるならば、これらの二軸が直交するという仮定が誤っているのだ。これは私自身の研究で問題となっている点であり、少なくとも、その相関関係の有無を調べることが私の研究テーマにおける当面の課題となっている。

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