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「俺はラブソングが聴けない。」SideM/いつかのトライアングル(THE 虎牙道)

こんにちは。

本日は救済と名高い『THE IDOLM@STER SideM 5th ANNIVERSARY DISC』シリーズより、“いつかのトライアングル”の話をする。
(ちなみにこの曲はJupiter、Beit、THE 虎牙道の3ユニットが歌う06盤の合同曲である。)


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THE IDOLM@STER SideM 5th ANNIVERSARY DISC 06 Jupiter&Beit&THE 虎牙道 試聴動画

救済かどうかは個人の主観だけど個人的には担当ユニットがカッコイイ曲を歌っていてよかったのでよかった。
(3rd以来のユニット曲ということでやっと曲が出たという意味の救済なら間違ってねえなと思う。)

表題にもある通り、自分はラブソングを聞くのが苦手だ。
 これは至極個人的な物差しというか、単純に恋愛モノというジャンルが苦手なことが起因している。親子愛、兄弟愛、友情は素直によいものだと思えるが、若者同士の恋愛感情となるとどうにもむず痒いというか、心がザワつくというか、平静を保っていられなくなる。昔とある映画を見た際、内気な女子生徒が自身に寄り添ってくれた男子生徒にエンディング間近で勇気を出して告白し玉砕するシーンがあったのだが、舌の根も乾かぬうちにその男子生徒の友人と女子生徒が結ばれ、男子生徒は女子生徒の友人と結ばれるという国語の点と点を線で結ぶ問題みたいなエンディングを提示された時は、「何故だ!!!!!!そんな余り物が出ないようにペア組ませてみましたみたいな雑な組み合わせ!!!!そんなもんなら要らないだろうが!!!!!!」とそれまでの感動から感慨まで全てをぶち壊され、あまりにも大きな精神的ショックを受けてフラフラになりながら映画館を出たことがある。こと創作において安直な交際にアレルギーがある。まあこの話はどうでもいいか。

閑話休題。
 当時試聴が出た時は、自分の担当ユニットでもあるTHE 虎牙道にとっての初の恋愛曲ということで巷はちょっとした騒ぎになったように思う。かくいう自分もいつかこの三人が恋愛をモチーフにした曲を歌うのだろうかと考えなかった訳ではない為、思わぬ角度から差し込まれた槍に貫かれながらも「貴様……やるではないか……」と余裕綽々、不敵な笑みを零したものだ。致命傷だが。
 だが、自分が先行リリース前日まで聴き倒したのは件の『いつかのトライアングル』ではなく、彼らの4曲目のユニット曲である『PROOF OF ONESELF』だった。
 彼らの成長、あるがままの姿、そして前曲にて取り入れられ始めたラップ調から繰り出される重低音の効いたダンサブルな一曲はあまりにも自分のに響き、これでもかと言うほど聞いて歌詞を読み取りメモに残した程だった。
 正直、『いつかのトライアングル』の儚げな音色は、『PROOF OF ONESELF』の力強くどっしりとした音に掻き消されていたと思う。もちろん、自分の中での話だ。

この記事を書くにあたって、『いつかのトライアングル』を聞いている。
 この曲はタイトルにあるようにトライアングル──つまり三角関係を綴った切ないラブソングだ。
 “僕”が好きな“キミ”は、“僕のとなり”を見つめて幸せそうに笑っている。そんな姿を見て胸が締め付けられるようなのに、三人でいる穏やかな時間を失いたくはない。大事な人と過ごすこの時間が大切なのに、“キミ”を想う気持ちに歯止めは利かない……。そんな相反する心持ちの中で何かに区切りをつけようと瞼を閉じる。“誰か”を想う気持ち、“キミ”がくれた強さを大切に生きていきたいと一歩を踏み出す……そんな歌詞だと思う。

改めて聞いて、初めて試聴を聞いたあの日の衝撃を思い出した。今まで聞いた事のないような柔らかい声色、真っ直ぐでいてどこか迷いを滲ませた歌声、芯を残したまま温かさを出す歌い方。これはきっと、5年目にして初めて歌う恋愛曲に迷いながらも出した彼らの答えなんだろう。
 なんとなく、ある会話を思い返した。

円城寺:いやいや、結婚するということは新しい家族を作るということなんだ。それなりの覚悟を見せるのは必要なことだと思うぞ。
牙崎:んなことねェ…家族とかいらねーし、どーでもいい。
大河:どうでもよくはないだろう。家族はかけがえのないもので…大切だ。
(『ハッピーブライダルパーク』ストーリー15より引用)

円城寺:家族に対する考え方は人それぞれだと思う。だが、自分たちがここにいるのは、自分たちに両親がいたからこそだ。父親と母親に感謝するという意味でも、結婚式は…
牙崎:クソ親父はしばらく見てねーし、母親なんて会ったことねーぞ?
(中略)
牙崎:家のことはどーだっていいだろ。オレ様はオレ様だからなァ。
大河:…そろそろ撮影が始まるみたいだ。行こう。
(『ハッピーブライダルパーク』ストーリー16より引用)

厳密に言えば、恋愛と結婚はイコールで結ばれるものでも、延長線上にあるものでもない。恋愛はコミュニケーションの一つであり、結婚は手段の一つだ。
 だから『ラブソングを歌うTHE 虎牙道』『家族観について話すTHE 虎牙道』を同列に語るのは些かおかしなことだ。おかしなことだと分かって、話を続ける。

大河と牙崎は、アイドルになった動機に家族の存在が関与している。
 大河は生き別れになった弟妹を探すため、牙崎は大河を倒して頂点に立ち己の強さを(父親を含む)全ての人間に知らしめる為だ。
 彼らのパーソナルな部分には家族の存在が深く関わっているのに、二人にとって……特に大河にとって親の存在は少々不自然なほど自身の外側にある。先に挙げたイベントは多くを牙崎と円城寺の問答が占めているが、自分は大河の言葉の端々に違和を感じずにはいられない。「家族は大事だ」と牙崎に苦言を呈し弟妹を思い続ける大河が頑なに両親の話をしないのは何故か。二人の家族観を静かに聞いていた大河の「…そろそろ撮影が始まるみたいだ。行こう。」に感じた違和感の正体は何か。その疑問を持った時『これを探り当ててはいけないのではないか』と感じたのは何故か。
 触れてはいけない箱に手をかけようとしているのではないかと、背筋が凍ったのをよく覚えている。

ちょっと、脱線している気がする。話を戻す。

ラブソングを歌う彼らを見てこの話を思い出したのは、少なからず自分の中に結婚は恋愛を経てするものという固定観念みたいなものがあるからだと思う。
 彼らの両親が恋愛結婚かはさておいて、彼らももしかすると将来恋愛を経て結婚という手段をとるかもしれない。特に円城寺は極めて普遍的な価値観を持っていると感じているので、恋愛と結婚を線で結んでいるかもしれない。

恋愛をするということは、広義において相手を愛するということだ。相手を個として認め、対等に互いを尊重し合う。そういう関係を、彼らはどう想像したのだろう。愛し合うという事を、どう捉えたのだろう。曲を聴きながらそんなことを考えた。
 「愛とは技術である。」エーリッヒ・フロムという社会心理学者の言葉だ。彼が彼なりの価値観と経験を持って“愛するということ”を語った著書があるので、折角だし今回の話に少し絡めてみようと思う。
 彼は、多くの人が愛するということを誤解していると言う。人々は『人をどう愛するか』ではなく『人にどう愛されるか』ばかりを気にしている。人々は愛に飢えているというのに、与えるという技術に無関心な為に愛されることが難しくなっている……そういう話のようだ。愛とは能動的な行動であり、手段であるとなれば、案外人を愛するというのは難しいことなのかもしれない。

彼の言う“愛”は、生半可な人間には体得できない。それは、まさしく人間として成熟した状態になければ再現できない高度な技術であるからだ。
 彼は言った。「愛の性質を示す基本的な要素は、“配慮”、“責任”、“尊敬”、“知”である」と。噛み砕いて説明すると、愛するものを常に気にかけ、そのものの求めに応じ、尊敬し、知ろうとする努力を怠らないことをまとめて愛することの性質と言っている。
 聖人であれ、と言っている訳ではない。他者を気にかける余裕を持てということだと自分は解釈している。つまり、私だけを見てという依存心、ナルシシズム的な全能感、自分の得ばかりを追い求め他者に与えることを忌避する欲求を克服し、自分の中にある人間的な力を信じろということだ。これはすごく難しいことだと思うけれど……。

『いつかのトライアングル』はきっと、愛することの途中にいる人の歌なのだと思う。大好きな人がいて、大切な関係があって、“僕”は自分なりにこの関係を愛していたのだろう。そして愛した分だけ、この関係から愛されていた筈だ。
 けれど、一つの集団を愛していた“僕”は、あろうことかその中の一人に愛されたいと思ってしまった。彼はその不誠実さに耐えられなくなったのだと思う。彼はまだ成熟した大人にはなり切れなくて、無条件に愛を与えることが怖くて(愛を与えたとして“キミ”から愛が返ってくるとは思えなかったから)、自分には分不相応なだったと、恋と愛を綯い交ぜにしながら気持ちに整理をつけた……のだと思う。
 彼らがどこまでこの歌を読み解いて、どんな解釈を滲ませながら歌ったのかは、やっぱり曲を聴いてみないと分からない。だから改めて曲を聴いた。割れ物を扱うような手つきを思わせる意外性を含んだ声色も、未熟な精神性と苦悩を思わせる歌声も、それでも愛していると少し成熟した本質を覗かせる歌い方も、全て当人の人間性が現れているようで、前よりも少しこの曲が好きになれた気がした。

えっと。上手く言えている気があまりしないんだけれど。

最後に少しだけ彼らの話をしてみる。

彼らは“理由あって”アイドルになった。それはつまり、彼らがアイドルになるまでの人生とアイドルになった動機に、特別大きな結びつきがあるということだ。
 理不尽な現実から愛する者を取り上げられ、なりふり構わず戦うことを選んだ少年。
 これからという時に非情な現実に道を阻まれ、その後掴み取った幸せさえ奪われそうになった青年。
 強さを求め続け父と決別し、孤独を孤独と思わず己が道を猛進し続けた少年。
 彼らがアイドルになるまでに送った人生は、彼らを彼らたらしめる価値観を形成するに至った。

だが、まだ足りないのかもしれない。

愛は一つではない。母の愛、父の愛、兄弟愛、他者愛……全て愛の形である。そして人を愛する為にまず最初に愛せるようにならなければならないのが自分自身だ。

彼らが“愛するということ”についてどんな結論を出すのか、その答えを目撃することができるのかは正直なところ分からない。だからせめて、彼らの苦悩に寄り添い、共に考える隣人になれたら嬉しいと思う。

そう、自分はまだ、愛するということを理解できていない。彼らと同様にそれを探し出そうとする段階にいる。結局はまだ、好ましいと思う存在に寄り添うことしかできない。かの社会心理学者の言うような成熟した人間にはなれていない。

だからかもしれない。自分がラブソングを聴けないのは、素直に愛を受け取る器がまだないからなんじゃないか。


自分がラブソングを聴けるようになるのはもう少し先になりそうだ。


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(終)

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