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『異邦人2』

なぜ2かというと、同タイトルのものを書いた記憶があるから。未確認ですが。

虐待されて育った子は「異邦人」であり、人と違う分析視覚を持つと、高橋和巳は言っていたけれど、なぜか。他の人にとっては当たり前なのに、自分にとって当たり前でないと、実際の生活の中で支障が生じるので、何が起きてどうなっているのかを、分析的に考えざるを得ないから。これは、現在「当事者研究」という名前でやられていることが、有効である一つの理由だろう。

しかし、その研究をしている人たちの抱える問題は、自分にとって当たり前ではないこと、つまり自分の抱える問題に関しては分析的に考えられても、自分にとって当たり前のことを、つまり自分の抱える問題ではない問題については、通常の人と同じであること。

常人というゴフマンのタームが有効なのは、こういうことを説明する時に、特に。英語では、The normalsかな。

昨日日帰りでビクトリアに来て、大学院関連のことをして、自転車を運び、また今日、ビクトリアに来た。

もう、自分の部屋で寝るのは、難しい。どこかに泊まるあてもない。でも、今晩会えるはずの人に、会いたいみたい。昨日来たのも、本当は今晩のため、だったと思う。

その人がどうしても好きだから、みたいなことよりは、親密な関係性を持てる人が欲しいから、なんだと思う。そして、そんな風に思ったことは、実は、今まで、なかったな。好きな人ができたから、一緒にいたいとか、デートアプリを試したいから試したいとか、デートしたいとか、そういうことは思っても、親密な関係性の人が欲しいという、ごくごく一般的な感情だとされているものを、率直に感じたことはなかった。

これって、ものすごく前進しているのではないか。常人的な欲求を持てた、という意味で。アンソニー・ギデンズを読んで、何が書いてあったか確認したくなった。

こんな風に、いちいち常人の有り様と自分のしていることや可能性を照らし合わせて、プロセスしないといけないのは、残念な生い立ちのせいなんだけど、より、その程度の軽い相手から、不幸にも羨まれ、チャンピオンシップを挑まれる。本当の意味では、こんな人生ではないことに、安心しつつ。

その絶妙なバランスの保ち方を、自分で分析せよ。恥を知れ。


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