生活と意見9(緊急事態の緊急たるゆえん)
連続ものの小説を書いている時に「生活と意見」を挟むのは控えていたのだが、執筆を半年放置してようやく下記リンクの事象にまで辿り着いたので例外的に生活と意見を述べます。
「マスクの下」はこのツイート↓の現場をお話として残そうと思って書いたので、とりあえず話の入り口までは来れた感じ。1年経ったけど、まだ世界は滅びていない。
1回目の緊急事態宣言下のような緊張感、恐怖を市民が取り戻せないことをネガティブに言う人がちらほら見られますが、人間の緊張感や恐怖はそういうものではないんですね。逆に言えば、2回目、3回目で初回と同じように恐れ戦いている人が居たとしたら、かなり例外的な存在だと思う(まあ、純なんだろうね)。
「人間は何にでも慣れる」というのをこの1年間、嫌と言うほど学ばされた気がします。なんと言うか、我が同胞の適応力の高さには驚かされるばかりで、我々は2度、3度と繰り返される緊急事態の中でそれでも「普通に」生きている。もちろん、その「普通」は括弧付きで、こんな生活は全然普通じゃないのだし、腹に据えかねることも山ほどあるんだが、手洗いマスク励行でそれでも働いたり学んだりしながら日々を過ごしているわけだ。偉いよ、あんたも俺も。
1回目の緊急事態宣言は誰にもなんにも分からない状況で発せられたから、「全体」の問題として機能したわけです。全体に無作為にマスクもカネも配ったし。我々が取り戻し難いのはこの「全体」の感覚。昨年の5月末にブルーインパルスを飛ばしちゃったでしょう。あそこから「ああ、これは医療の問題だったんなんだな」という理解が広がった。実はあそこらへんまでは何の問題なのか分かっていなかったんだと思う。何となく、よくわかんないうちに俺も苦しんだり死んだりするのかな、って話でしかなかった。
もちろん医療システムは全体の問題なんだが(ほとんどの人が病院で死ぬのを前提にしている国なんだから)、人間の認知は全体を捉えるようには出来ていないので「兵隊さんよ、ありがとう」的なプレゼンをすることで部分の問題と取り違える人が出てきてもそんなに責められない。人間ってそういうものなので。だからこそリスク・コミュニケーションってもんは難しいのだと思う。
というわけでさっさと結論に行くと、緊急事態の緊急感を取り戻したかったら「全体」の問題として捉え直す、最定義するのがだいじです。部分の問題に矮小化する限り、緊急感は取り戻せないでしょう。部分に対しては「関係ねえや」って思えちゃうからね。これが俺の意見。
ところがよー、飲食店フォーカスにせよ、緊急事態宣言/まん防地域をセレクティブに指定するにせよ、政策はとにかく全体を回避して部分に集中しようとしているわけだ。真逆だ、真逆。部分を積み上げただけで全体に辿り着けるわけがない。
「1年経っていろんなことが分かった気になってしまっているわけですが、実はよく分からないことばかりなんですよね」というところに立ち戻ることが必要なんだと思う。こういうことを言うと政治の世界では馬鹿だと思われるおそれもあるんだけど、人間は皆、全体を知ることもかなわず、原則的には明日のことなど分からない中で生きているわけで、「いろいろ勉強したけど、ここから先はわっかんねーなー」というのがいちばん正直な態度だと思います。
以上の文脈で俺が「全体」主義者呼ばわりされても、まあいいや。「部分」叩きは己を簡単に賢く見せる手管でしかないのだし。そういう政治に慣れることで見失われるものが山ほどあるんだと思うよ。
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