koyukkiy

ビールと猫をこよなく愛しています。 日々、本当に大切なことを探しています。

koyukkiy

ビールと猫をこよなく愛しています。 日々、本当に大切なことを探しています。

最近の記事

同じ世界なんてなにひとつない。

この間、平成生まれの同僚が、ぽつりと聞いた。 「昭和が終わるときも、昭和最後のなんて騒いだりしたんですか?」 その時、世の移ろいを。圧倒的に感じた。 「昭和が終わった時は、天皇が崩御して元号が変わったからね。お正月明けてすぐだったかなぁ。とにかく、昭和最後のなんて余韻もなかったよ。」 となんとなく、まじめに答えたが、 その時、自分がどこか遠くまで来ているような気分になった。 ここにいるようで、いないような。 列車から流れる風景を眺めているような。 自分は今どこ

    • 若い男の子に思うこと。

      若い男の子を観察するのが好きだ。 異性だからだろうか。純粋に微笑ましくみていられるのは、彼らである。 これが、女の子だと自分と重ね合わせてしまい、ちょっとざわざわしてしまうのである。 心をにまにまさせて、ぼんやり眺める。 一様に、こざっぱりとした髪型をし、リュックとイヤホンが装備されている、大学生。 そうかと思えば、まだスーツに着られ、大海に向かって出航したばかりの、初々しい社会人。 知らないことが多いということが、こんなにきらきら光ってみえるとは、彼らの年の頃に

      • bentoと愛と交差点。

        以前の職場でのお昼休みに、同僚のお弁当を目にすることがあった。同僚といっても、もう成人しているお子さんのいる人生の大先輩である。 そのお弁当箱は色褪せ、包みには、娘さんの名前がひらがなで書いてあった。 あぁ、なるほど。それらはきっと彼女の勲章なのだな。と、母になったこともないくせに、なんとなくピンときたことを覚えている。 最近、とある思いつきで、人様にお見せする弁当を一週間作った。 見られる。と思うと、何かと細かいところが気になり出す。 おかずの配置、色合い、栄養バラ

        • ねこの恩返し。

          諸事情により、新しい住まいで、保護していた猫と新生活を始めた。 彼は、もともと暮らしていた家のベランダに、たまに遊びに来る客人であった。 1月下旬であっただろうか。いつものように遊びに来たある時、ほかの猫と喧嘩をしたのか目に怪我をしており、ほとんど右目が開かなくなっていた。 愛猫を亡くしたばかりだった私は、また、猫を自分の元へ迎え入れる心持ちも整っておらず、迷ったがやはり見過ごせず、保護し病院に連れて行き、今に至る。 のら猫生活が長いからか、オス猫の本能か。そもそもの

        同じ世界なんてなにひとつない。

          ただそこにあること。

          仕事柄、何百年も前から存在した文化財を、目の前にすることが多々ある。 何人もの手を伝って、それらはいまここに在り、時が経てば、私もその何人かの一人になる。が、文化財はただそこに在り続ける。 慎重に扱いながら、そのことの大きさに、怖気付き、立ちすくみそうになることがある。 ただそこにある。ことの偉大さ。 それを思うと、自分の存在が本当に小さく感じる。 と同時に、それらに自分が試されているような気がしてくる。 失礼な気もするが、付喪神様が「どれ、お手並み拝見。」なんて言

          ただそこにあること。

          春めく日。

          啓蟄を過ぎると。 北の冬もいよいよ少し緩み、春が二駅前まできているか? と思うような日もある。 決まって、私の心持ちもあちこちに移ろい、いろいろ思う。 決まって、いつもは思わないあの人や、この人。 思い出すのが、春の夢。 あいたいなぁ。なんて思うものの。 会えなくなったからこそ。今がある、とも思う。 だけどまた、縁があれば必ずあえる。と思い直す。 同時に、今日。囲んでいてくれる人を思う。 そして、日々。毎日があることを思い出す。 空の色を楽しみに、明日を思う。

          春めく日。

          しんだねこがおしえてくれたこと。

          昨年の秋に愛猫が死んだ。 肺の悪性腫瘍と診断され、ひと月も立たずにあっという間に旅立ってしまった。 病気の特性上、少しは心の準備ができたものの、やっぱり別れは突然に訪れる。悲しみはもちろんだが、9年間当然のようにあった存在が消え、心ここに在らずの状態になった。いかに我が生活の。かけがえのない存在であることに気づかされ、今に至る。 おしえてもらったことは、二つある。 ひとつめは、自分の努力でなんとかなることは、もしかしたら多くなく、どうにもならないことを、いかに受け止め

          しんだねこがおしえてくれたこと。

          忘れる才能。

          私には、忘れる才能がない。 もちろん、過ぎ行く日々において忘れ去られる出来事もある。が、もう忘れたいのに。と思うことほど、いつまでもいつまでも、ふとした瞬間に再生され。その回数が多いからか、また脳裏に焼きつく、という無限ループである。 車窓からの風景、あるいは心がもやもやとしている時に見る夢、季節を感じさせる空。もろもろが、私を刺激し。とうに忘れているものと思っていた事柄を喚起する。 心を動かされたくて、映画や音楽、本などを貪り、自分の糧にしていた頃を懐かしく思う。

          忘れる才能。

          別れの延長線。

          人生には、別れが不可避であり、別れしかない。といっても過言ではないように思われる。 世間の皆様は、どのように別れに向き合っているのか。別れ下手な私にとっては、興味深い所なのである。 友達や、恋人はもちろんのこと、職場の異動や退職。別れがあれば表裏一体、出会いがあるのだが。 別れが我が心にのしかかり、今生残っていく性分を自覚した最近においては、出会いにすら少々臆病になりつつある。 近しいひとに、打ち明けてみても。あなたは優しいからね。いい意味で不器用なのだね。と、言われ

          別れの延長線。