きみにとなりには①

Landilrishは憂鬱であった。

彼は今年で60歳になる老人である。
年の割に背は高く、恰幅のよい体格をし、白く大きな髭を顎に纏ったその風貌からは
少々気難しい人を想像させるが
その実は正反対の人間だと言えるだろう。

彼は今まで一般に言う平凡な人生を送ってきた。
とある田舎の小さな農村に生まれ、公立の学校を出、上京し
中流ではあるが安定した職業に就いて28歳で結婚
二人の子供にも恵まれ、今ではそれぞれしっかり自立している。

仕事の方も順調に進み、年相応の地位を得て
無事2週間前に定年を迎え
今では妻と二人でノンビリと暮らす毎日である。

そして、これからもこの“平凡な人生”は続いていくと思われた。
自分に残された時間を有意義に使い、余生を楽しみ
しかる後に静かに幕を閉じていく。
といった具合に・・・。

しかし、実はここにLandilrishの“悩みの種”が有った。
彼は“自分の時間”を持て余してしまったのである。
今まで彼は“家族の為”・“会社の為”・“将来の為”等に時間を費やすことはあったが
“自分が楽しむ為”に時間を使うことはなかった。

したがって彼には趣味というものが無い。
勿論、たまに本を読んだり映画を見たりすることはあるが
それは単なる“時間潰し”の為であっても、趣味と呼べるような代物ではなかった。

これからはそういうわけにはいかない。
例えいくら時間を潰しても、その次にひたすら“自分の時間”が来るのだから・・・。

それでも尚、彼は時間を潰し続ける。
それが、彼が“自分の時間”対して出来るただ一つのことである限り・・・。

Landilrishは憂鬱であった。
彼は今までの自分の人生が如何に無機質に送られてきたか思い知らされた。
“堅実”と、いえば聞こえは良いが
つまり“与えられたレール”を何も考えず進んできただけだった。
“目標”・“手段”・“環境”等は全て誰かから与えられ
それらを“そつ”なくこなせば人並みの生活が送れる。
そこには自分の“意志”や“考え”は必要無く
むしろ周りの社会に適応する事を第一とした。

信頼できるレールであった。
脱線することは無かったし、間違った方向へ行く事も無かった。
まさかそのレールに“終着駅”が在るとは思いもしなかった。

初めて自分の足で歩かなければならなくなった自分に対し、彼はこう呟く。
「もしも、この私に電車の中から外を眺めるだけの好奇心が少しでもあれば・・・、
こんな事にはならなかったろうに・・・。」

今やLandilrishは“たいくつ”という名の森をただひたすら歩いている老人であった。
何処に行ったらいいのか?何時抜け出す事が出来るのか?
何も分からずに、ただ歩く事しか出来ない老人であった・・・。

つづく

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