彼が小説を書き始めたきっかけ
村上春樹さんの小説で忘れられない話があります。
その話では村上春樹さんが、「なぜ小説を書き始めることになったの」かが語られています。それは私の想像を遥かに超えた、少しスピリチュアルなものでした。最初に読んだ時は、不思議な体験をされたのだなという程度しか思っていませんでした。しかし最近私も似た経験をし、その小説のことが頭に浮かび、小説を読み直しました。その本は村上春樹さんの小説なのですが、文章は英語版でのみ書かれており、あまり日本の読者の方に知られていないかもしれないのでご紹介したいと思います。
それが書かれている本は、2015年に出版されたWind/Pinballです。彼の処女作である、「風の歌を聴け」とその次の作品である「1973年のピンボール」が英語訳され1つの本にまとめられた本です。この本が出版されるまでは、両作品は海外での英訳版の刊行は一切行われていなかったようです。
Wind/Pinballの中の「風の歌を聴け」の小説が始まる前にThe birth of my kitchen-table fictionという章があります。その章では、村上春樹さんがジャズ喫茶経営から小説家に転身することになった顛末が書かれています。
ここからは、その章に書かれていた話を引用も含めながら紹介していきます。
村上春樹さんは、小説家になる前は奥様とジャズ喫茶を経営していました。それは会社で働くという考え自体が嫌いであり、会社で働く代わりに自分の好きなジャズを流すお店を持ってそこで生計を立てたい考えたからでした。
多くの人の人生は、まず大学を卒業し、次に仕事を探し、最後に結婚という流れで進んでいきます。しかし、村上春樹さんの人生は真逆でした。彼はまず在学中に結婚し、次に働き始め、そして最後に大学を卒業しました。大学在学中の1974年に国分寺でジャズ喫茶オープンしました。
自分の店を持ったのはいいものの、現実の生活は甘くはありませんでした。お店はお客さんで賑わっていましたが、出店時に借金をして開店していたため、常に借金に追われていました。朝から深夜まで奥さんと一緒に働き、借金返済をして過ごしました。しかし、そんな生活に不満は一切なく、充実した20代の日々をすごしていました。ジャズ喫茶は順調に経営を続けていたものの、入居していたビルがリノベーションされることになり移転を余儀なくされました。そこで国分寺から千駄ヶ谷にお店を移すことになりました。
そんな忙しい日々の中でも千駄ヶ谷から近い神宮球場に野球観戦に行くのが息抜きとなっていました。1978年4月のある日の午後、その日も散歩がてらに神宮球場に試合を見に行きました。そのころには、ヤクルトスワローズのファンになっており、その日は広島カープとの試合でした。この日、本人は知る由もありませんが、村上春樹さんの一生を決定的に変える出来事が起こります。
当時資金もなく有力な選手もいなかったヤクルトは非常に弱く、試合を見に来ていたファンも多くはありませんでした。また外野フェンス裏に観戦席は無く芝の斜面しかなかったので、芝に座りビールを飲みながら観戦していました。晴天でとても気持ちの良い日でした。そして、村上さんの人生を変える出来事が起きたのは、1回裏、ヤクルトのでデイブ・ヒルトンが広島の外木場投手の球を打ち返しツーベースヒットを放った瞬間でした。その部分は原文を引用して紹介します。
In that instant, for no reason and based on no grounds whatsoever, it suddenly struck me: I think I can write a novel.
その瞬間、何の根拠や理由もなく突然「小説を書けるのでは」という気がしたのです。(著者訳)
引用:Haruki Murakami (2015). Wind/Pinball, Harvill Secker.
またその時の感覚というのは、
It felt as if something had come fluttering down from the sky, and I had caught it cleanly in my hands.
それはまるで空からなにかが降ってきてようであり、それを両手で見事に受け止めた。(著者訳)
引用:Haruki Murakami (2015). Wind/Pinball, Harvill Secker.
その時の感覚を言葉で表すなら、Revelation (天啓、啓示)のようであったが、もっと正確に言葉で表すならEpiphany (直観、ひらめき)のようだったと語っています。
試合終了後、すぐに新宿で原稿用紙と万年筆を買い小説を書き始めました。執筆はいつもジャズ喫茶の営業後に自宅のダイニングテーブルで行いました。仕事は深夜までしていたので、帰宅してから夜明前の数時間だけが執筆に使える時間でした。最初から納得の行く文章を書けたわけではなく、当初は苦戦したようです。村上春樹さんはロシア文学からアメリカ文学まで沢山小説を読んでいたそうですが、近代日本文学はあまり読んいなかったので、どう日本語で小説を書けば良いか分からなかったそうです。小説を書き始めて数ヶ月は苦戦しながらも書いていたが、書きあがった小説は村上春樹さん自身でも退屈だと思うような出来だったそうです。普通であればそこで小説を書くのをやめていたかもしれませんが、思いとどまらせるものがありました。それは、「小説を書ける」という直観がまだ心に鮮明に刻まれていたことでした。
そこで今までの小説の書き方を変えることにしました。まずは、洗練された文学を書くという意識を捨て、代わりに自分の好きなように心に浮かんだことを書くことにしました。次に、購入した原稿用紙と万年筆で書くことをやめ、クローゼットにしまってあった古いOlivettiのタイプライターを引っ張り出し英語で執筆することにしました。英語を読むことはできるとは言え、洗練された文章や難解な単語を書くほどの英語力はありませんでした。そのため英語で書く文章は自然と短く、簡単な文章になりました。頭の中でいかに複雑な文章が浮かんでも、自分の英語力で表現できるようにシンプルで平易な文で書いていきました。そうすると日本語で書いていた時とは違い、文章から贅肉が落とされていきました。最初はそのような執筆の仕方に苦労しましたが、彼の書く文章は徐々に独特のリズムを刻み始めました。
章を英語で書き終えたあと、Olivettiをクローゼットに戻し、原稿と万年筆を再度取り出し英語を日本語に「翻訳」しはじめました。日本語に直訳したわけではないので翻訳というよりは「移植」に近い作業でした。
このプロセスで書き上げた文章を読んでみて村上春樹さんは驚きました。原稿には、全く新しい自分らしい文章スタイルが生まれていたからです。自分のスタイルを確立した瞬間でした。いわゆる文学的な日本語から離れ、自分の自然な声で小説を書くことができるようになっていました。
群像の編集者から電話がきたのは、晴れた日曜日の朝でした。「風の歌を聴け」が群像新人文学賞の最終候補の5作に残ったとの報告の電話でした。神宮球場で試合を見たときから1年が経ち、年齢は30歳になっていました。原稿を群像に送ったあとは小説を書きたいという欲望は減退しており、送ったこと自体も忘れていました。
編集者からの電話をベッドで受けたあと、散歩をしに妻と外に出かけました。近所の千駄ヶ谷小学校の前を通った時、伝書鳩が草陰に隠れているのに気づきました。その鳩を拾い上げてみると、どうやら羽が折れているようででした。優しく鳩を抱え、表参道の交番に鳩を届けました。鳩を抱いている間、鳩は震え鳩の暖かみが手に沁みてきました。その時また村上春樹さんは直観しました。自分はこの賞をとり、ある程度成功を収める作家になると。その時の感覚を以下のように表現しています。
It was an audacious presumption, but I was sure at that moment that it would happen. Completely sure. Not in a theoretical way, but directly and intuitively.
大胆な思い込みだったが、その時私はそうなると確信していた。完全に。理屈ではなかったが、即座に直感的に確信していた。(著者訳)
引用:Haruki Murakami (2015). Wind/Pinball, Harvill Secker.
そのあと直観通り、村上春樹さんは群像新人文学賞を受賞します。応募の際に編集社に送っていた原稿は唯一持っていたものを送っており、原稿のコピーは取っていませんでした。もし賞を取って「風の歌を聴け」が発行されていなければ、原稿は永遠に村上春樹さんの手元に戻ることはありませんでした。そうなっていた場合、おそらく二度と小説を書くことはなかったと語っています。
「風の歌を聴け」の次の作品である「1973年のピンボール」もジャズ喫茶を経営しながらダイニングテーブルで書いた作品でした。しかし、その時には専業の作家になることに心をきめており、「1973年のピンボール」が完成するころにジャズ喫茶は売却しました。
30年前のあの日、神宮球場の外野フェンスの裏の芝生で、小説を書けるという考えがひらひらと手の中に落ちてきたときの感触は、今でもはっきりと覚えているそうです。また同様にその1年後の春の午後、千駄ヶ谷小学校の近くで拾った傷ついた鳩の温かみも、同じように思い出すことができるそうです。
このように村上春樹さんは、不思議ななにかに導かれ小説家になりました。
私も最近同様の体験し、それに不思議なほど納得し残りの人生はそこに集中しようときめています。
出典:Haruki Murakami (2015). Wind/Pinball, Harvill Secker.
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