弟は優しかった。そして弟を思い出す時に思い出すたびによみがえる「私は本当は優しくない。」ということ。そう思うたびに下腹部に鈍く重いものがうっすらと貼り付けられる。弟は私のことを心配してくれる一番の存在だった。

仕事でうまくいかないことがあると電話で愚痴を聞いてもらった。「ねえちゃん、マジになりすぎないで。ゲームだよ。仕事なんてゲームだと思ってやらなきゃ。誰かが何か言ってたとしてもそんなのまともに聞かないで、はいはい言ってりゃいいんだから。ねえちゃんは容量悪いからな。ゲームをクリアすればいいんだよ。」

弟が単身海外赴任になった。子どもの受験時期が近いからと弟のお嫁さんと子どもたちは日本に残った。「ねえちゃんスカイプやらないの?」「何それ」「パソコンあるんでしょ、電話代よりかからないんだ」「難しいんでしょ」「ヘッドセットつければいいんだよ」
聞いていたのに、家電量販店でヘッドセットを何度か探してはみつけてるのに、スカイプをやるところまでいかず、今度にしようと、それは私の優先順位の中で後に回された。弟は諦めたのかスカイプのことを言わなくなった。2人の間はメールのやり取りで繋がっていた。

ある時、長いメールが夜に届いた。寝ようかと布団に入ったところだった。毎日仕事で疲れていて体も気持ちも消耗していた私は2、3行の返信を送った。すぐにまた返信が届いて「冷たいな。あんなに長いメール送ったのに、返事はこれだけかよ。」返信する言葉が見つからずそのままにした。

子どもの頃には2学年の差が、そのまま二人の差になっていた。幼稚園の頃、お昼休みに園庭で大きな喧嘩があった。幼いながら大きな事件が起こっているという空気を感じていた。たくさんの園児たちが、私も含めてみんな、部屋から出て園庭を見つめていた。みんなが見つめる先では、男の子二人が砂場で取っ組み合いの喧嘩をしていた。一人は一つ下の体の大きなボスみたいだった男の子。もう一人は私の弟だった。弟はその子に馬乗りになられて殴られていた。助けに行かなきゃ、弟がやられている。どきどきと焦りと苦い思いがわたしを覆っていた。でも動けなかった。どうしても動けず、二人の姿を映像のように感じていた。映像のように遠いものの感覚と追い詰められるような感覚と気持ちが、グチャグチャになっていた。私は思わず柱をぎゅっと握っていた。幼稚園の頃の私はとっても内気で、外ではすぐに泣かされていた。そんな私にできることは、なにもなかった。すぐに先生が駆けつけて2人を離した。弟のことが心配で見にいかなきゃ、先生が来てくれてホッとした。
あとで母から、弟はわたしと同じことをしたくて幼稚園に入ってきたと聞かされた。その時、とっても切なかったのを覚えている。私のことを追って入ってきた弟。入園前はいつも一緒だったから、一緒にきたかったんだな。私と同じ幼稚園生になりたかったんだ。

その頃は、遊びに行く時もいつも後ろをついてきた。私と弟は一緒にいるのが当たり前だった。隣に、同じ歳の幼馴染の女の子がいた。彼女には妹がいて、歳も私と弟と同じニ学年違い。同じだけ離れていた。なので、いつも四人で何かして遊んでいた。遊びは缶蹴りやブランコやかくれんぼ。男の子女の子なんて気にしないで、弟も一緒になって遊んだ。でもある日、いつもついてくる弟が鬱陶しく思った。見つからないようにこっそり一人で遊びに出た。すぐに弟が走って玄関から出てきた。慌てて私を追って。それを陰に隠れてじっと動かず見つめた。慌てていた弟の表情をうっすらと覚えている。その日は慌てた弟の様子がよぎって、遊んでいても楽しくなかった。二度目はなかった。
家では私がリカちゃんで、弟はワタルくん。二人でお人形ごっこをしても遊んだ。そのうち、弟はワタルくんから卒業して、トラのぬいぐるみを自分の家来にして遊んでいた。その後はスーパーカー。そしていつの間にか弟は近所の男の子たちと遊ぶようになっていた。

あれは小学生の頃だった。同級生の男の子に言われた。「お前の弟、どうにかしろよ」「何?」どうやら弟は、近所で乱暴者のボスになっていた。その時のわたしは弟が誇らしかった。幼稚園に入る前のそこからいつの間に頼もしくなっていたのか。そんな気持ちになっていた。そんな弟だから、小学校でも暴れて、いたずらもたえなかった。母は連日、小学校に呼ばれた。掃除の時間に雑巾を投げて遊んで、教室のガラス窓を割ったとか、友達と喧嘩したとか、給食の時間に友達のおかずをとったとか。あれは小学校高学年の体育の時間。運動靴に履き替えて、校庭に出た。すると、校庭の真ん中でバケツをもった男の子が一人立っていた。遠くから見てもその姿は弟だとわかった。どこかから「あ、○○の弟だ」

ある日の朝、ランドセルの中身を机で準備していると、弟がわたしのところにやってきた。「ねえちゃん、今日の給食の献立表見せて。」弟は男の子の多くがそうであるように、プリントはほとんど母の手には渡らなかった。母は弟に関するプリントの情報は、近くに住む同級生の女の子のお母さんから得ていた。もちろん、弟の給食の献立表はどこかに消えている。わたしは女の子の几帳面な性格を発揮し、献立表や予定表などは毎月机の前に貼り替えていた。なんでだろうと思っていた。献立を確認した弟は、熱があるのを誤魔化して小学校に登校した。その日はデザートにミックスフルーツという缶詰のフルーツが出る日だった。

1月6日。弟の命日。

お葬式の後、親しくしてくれていた、彼のお兄さんのような存在の人が話してくれた。
話してましたよ。就職祝いにお姉さんから佐野元春のチケットをもらったこと。嬉しそうに話してましたよと。
子どもが好きでしたよね、彼が結婚する前、うちの子供たちを喜ばせようと、クリスマスイブにサンタクロースの服を着て遊びにきてくれたんですよ。

子どもが好きで、人が好きで、甘えん坊で、なんでも話していた弟。と思っていたのに、肝心な自分の苦しさは隠していた。

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