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『JIN~仁~』に見る花魁文化

遊郭の歴史   

日本に遊郭ができたのは1589年とされている。

※1589年前後(16世紀後半)における日本と世界の歴史

日本史世界史

ちょうど豊臣秀吉が日本を統一したくらいのときに遊郭が誕生したとされている。戦国時代が1つの節目を迎え、少し日本全国の風紀が緩んでしまった時期と言える。しかし、古代近代現代に限らず戦争には女性の影が見え隠れするものである。戦に関わっていた公娼が一種のまとまりを見せ、店舗を構えたのではないかと考える。

1589年に作られた最初の遊郭は江戸ではなく京都、大阪である。京都の柳原遊郭は豊臣秀吉によって創られたとされ、遊郭というシステムが当時から国の保護を受けていたことがわかる。のちに京都と大阪の遊郭は京都島原と大阪新町に移設され、吉原遊郭と合わせて「日本三大遊郭」と呼ばれるようになる。

吉原遊郭の成立 

江戸に遊郭が登場したのは1612年のことである。日本では江戸幕府が禁教令を出した年である。
現在の人形町のあたりに最初の遊郭が作られた(吉原遊郭)が、明暦の大火で焼失された。その後、浅草に移転された(新吉原)。

前述の京都・大阪の遊郭も1つの「街」として成立したものであったが、吉原も同じである。幕府は当時の風紀の乱れを良しとせず、「吉原遊郭」という1つの区画として整備したのである。その結果、江戸各地に乱立していた遊女屋は吉原遊郭に吸収され、客に非日常感・特別感を提供できるようになったのである。

各遊郭の比較

先述の三大遊郭(京都島原、江戸吉原、大阪新町)の規模、文化を比較する。

【面積比較】

面積比較※大阪新町遊郭については正確な資料がなかったものの、江戸吉原遊郭よりも狭いのは確実

【遊女人数比較】

遊女人数比較

【文化比較】

文化比較

以上のように、各地の遊郭によって文化や制度が異なっていたことがわかる。特に京都と大阪の違いは顕著で、京都島原遊郭で遊女に求められていたものは「知性や踊りの技術」であった。トップクラスの遊女になると、日本舞踊の各流派で師範の称号を得られるほどの腕前だったという。

対して大阪新町遊郭では、いわゆる「床の技術」のみが重視され、芸達者な遊女はあまりいなかった。遊女としてトップクラスの「太夫」になってしまうと、周囲の人間(マネージャーのような人や小間使い等)の面倒も見なければならなかったため、太夫を目指す遊女はほぼいなかったとされている。権力よりも実益を優先させる、実に大阪人らしい考え方と言えるだろう。

『JIN~仁~』において描かれているのは江戸吉原であるが、野風が遊郭を出ているシーンはない。女性が吉原の大門をくぐると手形なしでは出ることができなかったのである(大門手形)。
ここからは、『JIN』に登場する江戸吉原に焦点を当てる。


考察に入る前に

・南方仁がタイムスリップしたのは文久2年(1862年)
※以下は宝暦年間後の年号

年号


吉原遊女の格付け

吉原の遊女は大きく2つのカテゴリーに分類される。
①花魁
花魁は「一人前の遊女」という意味合いを持ち、お歯黒を付ける。
花魁にはいくつかの格付けがある。

太夫
 最上位の女郎であったが、宝暦年間に消滅
散茶女郎
 茶屋の2階で客を取っていた
呼び出し
 宝暦以降では最上位。野風がこれにあたる
昼三
 文政末に消滅
端女郎(見世女郎)
 最下級の遊女。小出恵介が入れ込んでいたメガネ遊女


②見習い
その名の通り見習いの遊女で、お歯黒を付けない。
見習いにも位があるが、「芸が達者だからすぐに出世する」といったことはなく、年齢での格上げだったと言われている。

新造(しんぞう)
 女郎になる前段階のこと。通常の女郎は16~17歳で初めての客をとることになるが、この歳に満たない女郎見習のことを指す。新造の中にもいくつか段階・立場があるが、主に「振袖新造」のことを指すと考えられている。
振袖新造(ふりそでしんぞう)
 姉さん女郎(自分が付き従っている女郎)の身の回りの世話であったり、姉さん女郎の客の話し相手をしたりする。

禿(かむろ)
 新造よりももっと若い遊女見習い。主に7~8歳くらいの見習いのことを呼ぶ。所属する遊女屋に住み込みで働く。遊女に付き従いながら、女郎としての在り方やしきたり等について学ぶ。
 『JIN~仁~』だと、野風の部屋に「おいらん、はいりんす」と言って入ってきた少女のこと。

遊女はどこから買われてくるのか

京都の遊女と違い、吉原の遊女は買われてくることが大半だったようである。ただし、全国から買い集めるということはなく、遊女のほとんどが江戸出身だったという記述がある。

明治13年に発行された『全盛古郷便覧』という本がある。これは遊郭の一覧表のようなもので、所属する遊女の出身地が書いてある店があったのだ。

神田や浅草、下谷の出身が全体の3~4割を占めていた。神田・浅草は吉原遊郭のすぐ近くである。実家が目と鼻の先にあるにも関わらず、大門をくぐることを許されなかった遊女の心情は想像しがたいものだろう。中には大阪から買われてきた遊女もいたようだが、このようなケースはやはり稀だったようである。全盛古郷便覧には出身地だけでなく年齢や親の名、源氏名と本名まで記されていた。

全盛古郷便覧

『全盛古郷便覧』
国立国会図書館デジタルコレクション

遊女と遊ぶには

野風は「呼び出し」と呼ばれ、『JIN』の年代では最も高級であるとされた遊女である。現代ではお金をそれなりに払えばすぐに嬢が相手をしてくれるが、当時はそういうわけにはいかない。様々なしきたりによって縛られていたのである。

…とここまで書いたは良いものの、遊郭のしきたりに関しては確実性のある資料がなく、しきたり自体の実在が疑問視されている。よってここでは記述はしない。

当時の貨幣価値

当時の貨幣価値は日によって異なっていたと言われている。江戸時代では金・銀・銅の3種類の貨幣が流通しており、金と銀の交換割合も変動制であった。

【金貨】定数(枚数)で位が繰り上がる仕組み
1両(りょう)=4分(ぶ)=16朱(しゅ)
※主に関東で用いられていた

【銀貨】定量(重さ)で位が繰り上がる仕組み
1貫(かん)=10,000匁(もんめ)=10分(ふん)
※主に関西で用いられていた

また、モノとの交換価値も変動制であった。ゆえに、「1両っていくら?」の問いには非常に答えにくい。

遊女と遊ぶのにかかるお金 ~vs野風~ 

『JIN~仁~』に登場する遊女と遊ぶためには一晩それくらいのお金がかかったのかを試算する。
※1両=10万円で計算

野風クラス(呼び出し)になると、取り巻きが30人程いたと言われている。野風が自分のことを50両で買った回のドンチャン騒ぎ、もともとは客が自腹で払うものである。

さらに、呼び出しを1晩買うには1両かかった。プラスでその遊女屋の全員に払うチップが4両ほど。
これを合計すると、
50両(500万円)+ 1両(10万円)+ 4両(40万円)= 550万円


遊女と遊ぶのにかかるお金 ~vsメガネ女郎~

端女郎と遊ぶ場合、野風のような大宴会を開く必要もなく、全員分のチップも払う必要がなかったようである。ただし、床代(端女郎は2匁ほど)や場所代(端女郎は3匁ほど)は支払う必要があったようである。

2匁(2,000円)+ 3匁(3,000円)= 5,000円

さらに、作中では恭太郎(小出恵介)が女郎にメガネを贈っている。江戸時代、メガネは1両1分ほどであったと言われている。父親の形見を売らなければ1両を工面できなかった下っ端旗本家の当主にとっては痛い出費だ。
※1曲亭馬琴の日記より

身請け制度

身請け制度とは、花魁が負っている借金やこれから稼ぐはずだった金額、祝儀をプラスして支払うことで花魁を遊郭から出し自分のもとに置ける制度である。

身請けにはいくつかしきたりがあったとされている。
①遊女は身請けを断れない
作中でも野風が言及している。遊女に大病が見つかった場合はこの限りではない。作中では野風がこのケースに当たる。
※実際には「断れない」というよりは「遊女屋側に断る理由がない」と言った方が正確かもしれない。身請けが決まると遊女屋には大金が舞い込んでくるため、基本的に身請けを断ることはなかった。

②大門までは徒歩、大門からは駕籠
いわゆる「花魁道中」が展開される。

③身請け元は花魁の借金、これから稼ぐはずの金、祝儀を支払う
天明年間ではすべての費用を合わせても1,000両が限度であったが、あまり守られるケースはなかったとされている。そもそも身請け金は遊女屋の言い値であった。

作中で、野風が身請けされるときに提示された金額は2,000両だった。
200,000,000円、つまり2億円である。ものすごい財閥。

最後に

できる範囲で調べてみました。他にも考察してほしい!というドラマがありましたらコメントくださいね。




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