「本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む」

ここ数年、文章を書くことにコンプレックスを持っている。特に、自分で自分の思ったことを書くような場合。

頭で思っている断片的な何かを、活字にしてPCに打ち込むその過程の中で、様々な推敲が行われる。頭の中の情報を繋げるだけじゃない、複雑な翻訳作業。見栄を張ってちょっと小難しい慣用句とかを挟んでみたり、ちょっといいことを書こうとしてみたり。そうしていくうちに、最初にふっと頭に浮かんだ純粋な何ものかがどんどん変性していく感覚があった。なんかいいこと言ってますけど、それって最初にほんとに俺が思ってたのと同じか?と自問自答しても、数分前の俺の思考は既に何重にも上書きされていて復元不可。結局皆さんにお見せするような文章は、思考する脳内とタイピングする指によって大きく加工され歪められたそれでしかないことに気づいたとき、じゃあ感想を書くって一体何なんだろうという虚しさに苛まれる。中学生くらいのときは、自分に過剰な自信を持ちがちだから、俺の文章is最強だと信じてやまなかったけど、それだって今見返してみたらよくもまぁ恥ずかしげもなく、、みたいなことを思いつつ、逆にここまで自我を持てていたあの頃を羨ましくも思う。今はできないことだから。現に今自分がやっているYouTuberのファン活動においても、動画を見た感想とかをしっかり書きたいんだけれど、純度100%でそれらを出力して文字化することのできない情けなさがある。TLに流れてくる他の方のピュアな言葉たちを見ては、俺ならもっとこねくり回して書いちゃうんだろうなぁと日々悩んでいる。

そんな中で読んだこの記事。

衝撃だった。驚くほどの感受性。そして表現力。しかもその表現力も俺のようにぐるぐるこねくり回されたものではなく。おそらく脳で考えたことが瞬時に口から出ている。これは天性の才能だと、そう思った。

そしてこの記事が本になって、今日発売されたという。発売日に店頭に行き、そして発売日に読了した。ちょっと面白すぎた。そして暖かい気持ちになった。

この本には、「愛」がたくさん詰まっている。みくのしん氏の作品に没入し深く共感しながら読み進めようとする愛、その様を我が子のように温かな眼差しで見守るかまど氏の愛、そしてそんなみくのしん氏のことを思い新作を書き下ろした雨穴氏の愛、本当に愛が深い作品だった。

で、自分に置き換えたとき、俺にはその「愛」が圧倒的に不足していることに気付いた。読書体験なんか本当にそうで、今までのように表層をなぞるだけでなく、言葉の端々まで深く深く読んでいくことで自分の中の何かがきっと変わるんだろうなぁと思った。そして、それは日常生活においてもそうで、もっと俺は世界を楽しめるんだろうなぁと。細部に目を凝らし、色んなものに共感し、感受性を高めていけば、日常の世界ももっと美しいものになるのではないかと。米津玄師もなんかのインタビューで言ってたけど、身も蓋もない現実なら自分から愛していくしかないんです。そういった面での「愛」を見過ごさないような大人になりてぇなぁと、今までも薄々思ってはいたけど、ますますそう思えるようになった。もちろんいつだってそのマインドで生きるのは困難だし、何ならみくのしん氏のような本の読み方や感受性は俺には到底習得できないし、性格上卑屈になったり閉じこもったり何度も何度も繰り返すとは思うけれど、みくのしん氏が言うところの「1」を絶やさなければ多分何かが待っている。そのためにあくまでも最低限度の愛を持って生きること、というか生きようと努めること。これが大事なんだろうなぁ。その先にこそ、自分が本当に納得の行く文章ってのがあるわけなんです。

そんなことを、「本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む」を読んで考えました。頑張って一気に書いたのでこの記事は割と純粋な思考に近い言葉かもしれません、多分ね。

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