教育の評価タイミングを定めること

教育ってなんなのか。大学ではちょっと亜種だけれど、教育に関係するようなものを受講していた。高校の部活での経験から、「教えるって何?」って思ったのが要素の一つとしてあったように思う。

なんとなく、最近分かってきたつもりのことは、たぶん一番ミニマムな教育は、反応することだ。なんらかの反応をすることが相手に対して影響を及ぼす。それがもっとも単純な、教育なのではないか。反応によって可否が分かる。その可否の正確さや一貫性などはまた、議論の余地があるのだろうが、可否を言い渡されることは多分教育的なのである。
反応というよりも、「感想」とか「フィードバック」の方が個人的にはイメージしやすい。可否こもごも含むものを相手に渡す。相手に向かって打ち返す何かである。
相手に何か渡すものが教授的でなくても十分に教育は成立するように感じる。

ただ、返すのみでは、教育自体の評価がつかない。教育自体を評価するには期間を決めてその時点で何か目的を達成したかを図るのが早いのだろう。
教育はしばしば目的的な行為であるとされる。ただ、本質的な何かが時間軸的にいつ達成されるのかは不明である。先生に言われたことが在学中に効力を発するかわからないのである。その意味で、教育を評価するのは難しい。

難しい、といっても教育を評価する=期限を決めて動き出したとき、失敗してよい場面とそうでない場面が出てくる。評価期限に近いタイミングでは失敗は許されにくいかもしれないが、序盤の試行錯誤で生じる失敗は許されるはずである。
失敗が許されるがゆえにかなり戦略的に試しながら、進んでいくことができる。つまり、短期的に成果がでなくとも長期的に成果が出る選択肢を取り続けられる。はずである。ということである。

むろん、この話は学びてのモチベーションなどは完全に無視しているし、空論感はぬぐえない。ただ、要素として期間設定と目標設定すると「教えること」を考えることははかどるように感じた。
期間設定することが、首を絞めるような方向へ向かずに、ゆとりにむかっているということが学びなのかもしれない。

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