怒りへの憧れ

「怒り」は行動の原理にすべきか。
しばしば目にする成功体験というか、原体験みたいなものは「怒り」を元に語られることが多いように思う。実際には、「怒り」ってものが印象に残ってしまうからただそう思っているだけかもしれない。

どちらにしても、そんなことを繰り返し見ると、自分に怒りがなく(怒りの自覚がなく)目的的に動けないことことをある種の負い目に思うことはある。負い目に思うのは「怒りを感じれない」時と「そんなふるまいをできない」時である。
それを意識的でも無意識的でも蓄積していった先で、「テンプレ的に怒れる対象」があると、それに対して怒ってしまう。

テンプレ的に怒れる対象というのは、自分の思いとかこだわりで怒るというよりは「社会的な悪」に対して怒る。"明らかに怒ってよい対象"だからこそ、溜め込んでしまったものを発散できる。
「怒るべきである」というような思いを遂行できる。

この遂行できる。って感じは「怒り」によって、怒りを発するもの自身やその周囲の者へ不快感を与える。そこから、怒り=悪として作用することも多いみたいな刷り込みがたぶんある。
その、ある種の「悪事を働く」ような意識があるように思う。
この、悪事を働く感と怒ることへのあこがれのアンビバレントなものを持っているからこそ、大義名分に強く反応する。

自分の価値基準を元で怒るのであれば、それは理解されにくい怒りなのであろうし、「社会的に怒ってよいから怒る」ものではなくなる。ただ、多分怒りって本来こんな形のものである。憧れている怒りもこの類のもののはずである。

怒りを放出するのは、本来、戦う領域をきちんと定めて行うべきで、「洗練された戦い方」(『棋士と哲学者』の前書きで出てきて時折思い出すワード)をできるようになるべきなのだろう。

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