目的なき合目的性

「美しい」とは何でしょう?
今日は『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?』という名著を読みました。ここでは美的感覚について詳細に述べられていて、一日中美しさについて考えさせられました。

ここでの主張は大きくこう言ったものでした。認識のモードを「理性」だけに依存するのは危険であり、正しい認識や判断には「快・不快」といった感性の活用が不可欠だということです。
世界は発展を続けて「論理性や合理性」には限界が来ています。そこで注目されているのは「直感や感覚」の世界ですよ。

ここでカントの『判断力批判』の全てが詰まったこの一節を見てみましょう。
「美とはなんらかの対象の合目的性の形式であるが、それは当の合目的性が目的の表象を欠きながら、その対象について知覚されるかぎりのことである。」  

はい。カントらしく何言ってるか分かりませんね。これがカントの唯一性であり欠点でもあります。

めちゃくちゃ要約すると、「美しいということはなんらかの普遍的妥当性があるんだ」という主張です。
前提として、人が「良い」という時何らかの目的に沿って理解する(良い包丁とは切れるという目的を叶える包丁です)
しかし、美しいに関しては違います。美しいということに目的はないのです。

詳細に言うと、「何かの対象の合目的性の形式」という部分は、美しいものを見たり聞いたりすると、それが何かの目的を持っているように感じることを指しています。
例えば、美しい景色を見ることで、心が安らぐことや幸福感を感じることができます。これが美の「合目的性」です。

しかし、この文で言われているのは、美がその対象物自体が何かを達成しようとしているわけではなく、単に私たちがその対象物を見たり聞いたりすることで感じることができるということです。美は、目的の表象を持っている必要はないのですよ。ふ。

例えば、美しい夕日を見ると感動して、幸せな気分になることがあります。
しかし、夕日自体は私たちの感情を操作しようとしているわけではなく、単に自然の一部として存在しています。それでも私たちは美しいと感じることができるのです。

つまり、美とは私たちの感じ方に強く依存しており、対象物自体の目的性には依存しないということです。
実際には何の目的も持たない対象や表象でも、その形式や構成があたかもある目的を持っているかのように見えます。これは私たちの感性の中で起きていることです。
ということは、私たちの感性を鍛えることで美的感覚を研ぎ澄ますことが出来るのですよね。(1039)

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