失われた"Silly Season"を求めて

2021年の梅雨はすこし変だった。なかなか来ないと思ったらいつの間にか始まっていて、そのくせ7月に入ってからもだらだらと続いた。気圧が低いとなんだかだるくて会社には行きたくないし、家でする仕事は進まないから鬱屈とする。そんな風に適当に働いて悶々として、もうダメだ、の一歩手前くらいでいつも金曜日のゴングに救われる。週休2日制は理にかなっているのかも知れない。

そんな長い梅雨がやっと明けた日曜日、一緒にお昼を食べる約束をしていた友人たちと海へ行くことになった。

新宿駅で待ち合わせをして、ベルクでビールとサンドイッチを買った。グリーン車に乗った時にはもうビールが無くなっていて、サンドイッチに乗ったしょっぱいハムを持て余した。天気が良い、とか、前の晩のパーティがどうだった、とか、そんなことを話しながらあっという間に鎌倉に着いた。

駅から海まで20分歩いたけれど、グリーン車に乗っていた時間よりもずっと長く感じた。本当は2時間くらい歩いていたのかもしれない。初めて行く海岸だった。

浜にはそれなりに人がいた。彼らの食べる惣菜を狙って、とんびがゆらゆらと集まっていた。刺青の入ったサーファー風の男が横たわる横で、毛の長い犬がうんこをしていた。「そういえばビーチで猫を見たことがないな」と思った。

海はどこまでも遠く続いている。なだらかなその表面は、よく見ると濃いブルーと薄いブルーとで、まだらになっている。海流の境目があるのだ。一見穏やかな海面のその下では、さまざまな海流が北へ南へと高速で行き来している。人は平気な顔をして、内側では幸せを噛み締めていたり、笑いを堪えていたり、逆に強烈な差別感情を抱いていたり、誰かを恨んでいたりもするけれど、それって海みたいだな、と安直ながら思った。

鎌倉駅前のスーパーで買った寿司を食べ、ビールを飲みながら音楽を聴いた。一通り満足すると、海へ入った。一人の友人は運動や自然が好きなタイプで、沖へ泳いで行ってはプカプカと仰向けに浮かんで太陽の光を浴びていた。僕も同じように沖でプカプカと浮かんでみた。目の奥に鋭く差し込む太陽光線にまぶたを半分閉じながら、海水同士がぶつかる時のボゴボゴとくぐもった音を聞いた。時々飲み込んでしまう海水がしょっぱくてむせた。顔を上げると浜辺の方にもう一人の友人が小さく見えた。あまり泳ぎが得意ではないようで、浅瀬で水浴びをしていた。そんなことを続けていると、いつのまにか顔や肩が真っ赤に焼けていて、痛みを感じる度にぐったりと疲れを感じた。

夕暮れ時になって初めて、西の方に富士山が見えることに気づいた。空が真っ赤になったと思ったら、そこからはあっという間に暗くなった。

一人の友人が「ポイ」という、ジャグリングの道具を持ってきていた。「ポイ」は紐の先端に光る球体をつけたもので、それらを両手に持ちリズミカルに振り回す。僕も見様見真似で練習した。ピカピカ光るのが面白いのか、気づくとどこからともなく子供たちが、しかも何組も現れて、自分もその光る玉を振り回したい、と名乗り出た。

変な客も来た。50代後半くらいの白髪の男で、ショートパンツにウエストバッグを付け、暗闇でもわかるくらいしっかりと日焼けをしている。その男が、焼けた肌とは対照的に真っ白な歯をニヤニヤと見せつけながら、友人に「わたしを蹴ってください」と懇願するのである。僕と、もう一人の友人は子供たちにポイを教えながらも、横目でその様子を伺った。懇願に耐えかねた友人がついにその男を蹴ると、男は飛んできた足を自分のスネでいなしながら、友人に反撃の蹴りを入れた。そこから男と友人はしばらくお互いを蹴り合っていた。

男は相変わらずニヤニヤしながら、バブルの時代に男の父親が購入した近くのリゾートマンションに住んでいること、キックボクシングをやっており時々こうやってビーチにいる人とスパーリングをしていること、を散々蹴りつけた友人に対して手短に説明し、「最後にもう一回蹴ってください!」と蹴られて、消えた。

帰りにラーメンを食べようと思い、駅前を散策したが、どこも20時で閉店していた。「自粛」である。ふらふら歩きながら、昼の海水で唇がしょっぱくなっているのを感じた時、自分は海の帰りに食べるラーメンが好きだったことを思い出した。正確には、海へ行った帰り、昼間の日焼けがジンジンと火照るのを感じつつ「海水よりも少ししょっぱくないな」と思いながらラーメンを食べ、満腹になるのと同時にその日の疲れを感じるのが好きだ。食べたいものが食べれない時ほど、想像力が豊かになることはない。

"Silly Season"(ばかげた季節)というのは晩夏のことだが、夏の終わりはニュースのネタが無くなるのが通例なので、転じて、なんでもない事なのにばかみたいに誇張された記事、そのくらい世の中的に退屈な時期、のような意味もある。例えば、「プーチンが半裸で馬に乗った」とか「14人のイギリス人が10分で電話ボックスに入った」とか「デカい野菜が獲れた」とか。なんでもないありふれたことから独自の着眼点で面白みを抽出するというのが、そのばかばかしさも含めて好きだ。

正直ここ1年半ほど、毎日毎日、世の中がぐるぐるぐるぐるしていて、もう参ったという気持ちだ。たまにいわゆる「ばかげた」ニュースがあっても、それは現実から目を背けよう、あるいは何かを隠そうとしていることの裏返しでしかない。いくらニシキヘビが逃げても、その裏にめちゃくちゃな問題が横たわっていたら、それは本当の意味での「ばかげた」ニュースではない。もう"Silly Season"なんて二度と来ないのかもしれないと思うと、涙が出そうになる。

世の中の問題から目を背けてはいけないけれど、それでも時には、晩夏に限らず全ての時間と場所で、自分なりの"Silly Season"を見つけていくしかないと思う。なんでもないことを両手放しで楽しむ、感じる、面白いと思う、ということをしないと、そういう感覚はどんどん死んでいく。新型コロナウイルスは味覚と嗅覚をダメにすると言うけれど、それよりもっとずっと恐ろしいことだと思う。

そんなことを思っていたら、また雨が降り出した。8月に入ると台風がやってくる。今年の台風は誰にもチヤホヤしてもらえなくて可哀想だと思う。

追伸:
タイトルはもちろんプルースト「失われた時を求めて」からです。しょっぱい味が思い出を繋いでいくことがプルースト的だと思ったし、この作品にはよく浜辺が出てきます。一番好きな浜辺での場面は、主人公の"わたし"が生涯愛することになる女性・アルベルチーヌを初めて認識する場面。14歳のアルベルチーヌが浜辺のせりあがった土手から思い切りジャンプして、下の道を歩いていたおじさんの上を飛び越えるのだけど、その様子を"わたし"は遠くから見ている。はじけるような若さが老いを大胆に飛び越えていく、シンプルだけど気持ちのいい情景です。(全てうろ覚え)

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