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選手は話を聞いて当然という幻想

自分自身、TRを行う中で「選手はコーチの話を聞いて当然」というのが基準の時期がありました。今から考えると我ながら未熟でした。ただ、日本の教育現場では「生徒は先生の話を聞いて当たり前」という考えが土台にあり、教室で先生の話に耳を傾ける生徒たち、という光景は個人的に普通だとは思います。

サッカーのトレーニングとの違いは、選手はサッカーをプレーしに来ているのであり、話を聞きにグラウンドにきている訳ではないということ。例えばミニゲーム大会をして、その日全くコーチが話さなくても選手はプレーし続け、ともすれば満足して帰ります。逆にコーチが1時間半、選手の前で話をし続けたとしたら、帰宅して「今日サッカーしなかったんだけど」と不満を漏らすでしょう。

指導者は基本、選手と比べて有利な位置にいます。その立場を認識していないと選手にとって「仕方ないから話聞いてるフリしておこう」という存在になってしまいます。そしてそれに対し「聞いてるのか!」と言ったところで、それは権力を利用して強制的に「聞かせている」に過ぎない。指導者になりたての頃、自分にもそういう部分がありました。

指導を続ける中で、「選手はこちらの伝え方が下手だと聞かない」と自らに矢印を向けるよう意識してますが、実際は選手達が興味深く聞けてるかどうかは分かりません。話を聞いて貰えるコーチになる為には試行錯誤が必要で、相互にコミュニケーションを取ったり、話のまとまりを気にしたり、彼らがどうすれば「聞いてみよう」となるかを探り続ける必要があります。

話し方のテクニック、相手への思いやり、ユーモア、サッカー観の確立、その伝え方、情熱、自分の人生で大切にしてきたことetc。 それら全てを総動員させて選手に「この人の話を聞いてみよう」と思って貰えるかの勝負。それは決して「話を聞かない選手」との勝負などではなく、「彼らの心を動かすという難題から逃げない自分」との勝負なのではないかと最近思います。




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