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私は一緒に時を過ごすに値しない
この間、自分で主催したオンラインのワークショップ的なものの最終回を終えた。
毎回の時間がすごく楽しく、参加してくれた人もとても満足してくれていた。
それにも関わらず、「自分の発言や在り方が、何かに障って、参加者が途中でいなくなったらどうしよう」みたいな不安がずっとあったことに気付いた。
この間、家でモヤっとしたことがあった。
その日は朝の9時頃から子連れで遊びに行く予定だったのだが、妻の仕事の都合で直前に出発が『1時間くらい』遅くなってしまったのだ。
行き先も近場だし、9時出発が10時出発になったところでさして何の影響もなかったはずだった。
それにも関わらず「ないがしろにされている」と感じて、モヤっとした。
自身の感情のゆらぎは自分自身の根源を探る良いチャンス!
ということで、この不安やもやもやの正体を探っていたら、割と深いところにある痛みに気付くことができた。
それは、「私は一緒に時を過ごすに値しない」という信念だった。
私は一緒に時を過ごすに値しない
我々人間は、起きたことを起きたこととして純粋に捉えることができない。
必ず、自分自身の解釈が加わる。
例えば、人からフィードバックをもらったときに、
「良いアドバイスがもらえた」と捉えられる人と
「私はダメなんだ」と捉えてしまう人がいる。
同じ出来事が起きたとしても、その出来事をどのように解釈するかは人によって大きく異なる。
そして、その解釈の根源にあるのが、人間の『痛み』。
人は無自覚に、自分の痛みを通して出来事を解釈し続けてしまうのである。
冒頭の一つ目の例だと、僕も楽しんでいたし、参加者も楽しんでいたので、「途中でいなくなってしまう」という現実が起こる要因は正直見当たらない。
それにも関わらず、自分の奥底で「私は一緒に時を過ごすに値しない」と信じてしまっているために、その信念に沿うような現実を無自覚に探してしまっていた。
送ったメッセージへの返信が遅かった。
自分が言葉を発した時のリアクションに少し戸惑いがあった。
うわっ、小さっ!!!って自分で書いててびっくりするくらい取るに足らない出来事から、「楽しそうに見えるけど、心の奥ではこの時間に価値を感じていないんじゃないか?」
みたいな解釈をどんどん創り出していた。
無自覚に抱えている痛みはそれくらい強力に現実をゆがめていくのである。
二つ目の例だと、すごく混んでる場所に行くわけでもないので、出発が1時間遅れても、正直ほとんど影響はない。
「あっ、そう1時間遅れるのね、OK♪」でいいはずなのに、そうではなくて「自分がないがしろにされている」という解釈を創り出してしまう。
なぜなら、「私は一緒に時を過ごすに値しない」存在だから。
「予定していた時間に間に合わなかった」という出来事は、この信念にとっては格好の材料になる。
「ほらっ!時間を守られないでしょ。それは、あなたが一緒に過ごすに値しない人間だからだよ。」と。
いやっ、じゃあなんで結婚してんねん!って冷静に見ればツッコミたくなる。
でも、そんな根拠の乏しい、幻想のような信念を人間は必ず抱えていて、この痛みを通して現実を解釈し続けている。
信じてるくせに、抵抗する
そんな風に自分で決めつけて、自分で解釈しているくせに、「私と共に過ごす時間に価値はないんだ!」なんて実感したくない。
だから精一杯抵抗する。
ユーモアを身に付けて相手を楽しませようとするし、
知識を付けて面白い話ができるようにするし、
相手の機微を捉えて何か価値を提供しようと頑張る。
でも、どこまで行っても起点は同じ。
「私は一緒に時を過ごすに値しない」からスタートしているから、どんなに頑張っても、「ああっ、やっぱり私と一緒に過ごす価値はないんだ」という結果にいつか帰ってきてしまう。
思えば幼いころからずっとこの不安を抱えていた。
父と遊びに行ったときも、「自分なんかといて、この人は本当に楽しいんだろうか?幸せなんだろうか?」という疑いをいつも持っていた。
小学校の頃は一緒によく遊んでいた友達と、中学に上がってあまり一緒に遊ばなくなった時、「あっ、この子は自分といても楽しくなかったんだな。自分なんか関わらない方が良かったんだな」って勝手に決めつけた。
高校、大学とバレーボールをしていたけれど、自分が上手くプレーをできているときは楽しかったし、変な不安もなかった。でも、ケガをして全く活躍できなくなると、練習の場にいることも辛くなった。私と一緒に過ごす時間に価値なんてないから、何か活躍してないと自分の居場所を認められなかった。
私は、『私は一緒に時を過ごすに値しない』存在であることを自ら選んでいた。
それは、人とつながろうとすることが怖かったから。
つながろうとした結果、もし、つながれなかったら、僕はそのショックに耐えられないから。
そんな風に自分を守るために、『私は一緒に時を過ごすに値しない』存在である、ということにしておいただけ。
そんな存在だったら、人とつながろうとしなくて当然だから。
でも、傷つくことを恐れて、自分から人を遠ざけていたら、私が欲しいつながりは一生得られない。
痛みから起こる自動解釈に人生をゆだねるのではなくて、自分が心から欲しいと思っているものに正直になりたい。
「自分と過ごす時間に価値なんてないんだ」そんな恐れもあっていい。
そして、「あなたと過ごすこの時間が楽しいし幸せだ」そんな自分の感覚を信じて、自由に表現してもいい。
どんなにショックを受けても、辛いことがあったとしても、私は人とつながる道を選びたい。
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