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人間じゃないと友達がいらない

先日、久米島時代の同僚と山登りをしてきました。

山に登った後は箱根の温泉に浸かり、、、
夜はお家でのんびりご飯を食べつつおしゃべりをする。

居心地がよくて、実に良い時間でした。

島時代の同僚は、いろいろなことに対して共に戦ってきた仲であり、僕の弱い部分もたくさん見せてきた間柄で、大切な友人です。

そう、『友人』なんです。

普通の言葉をなぜ2回繰り返したかと言うと、人間じゃなかった当時の自分は『友達』はいなくてもいい、と思っていたからなんですね。

人間じゃないと友達がいらない

『友達』という言葉はいろんな解釈が可能です。
なので、当時の自分が思っていたことを明確にしたいと思います。

僕にとっての「友達がいらない」はこんな意味でした。

他愛のない話とか、遊びの時間とか、そういう生産性のない時間を過ごすだけの友達はいなくてもいい。
共に刺激し合えたり、高め合えたり、そういう関係性を築きたい。

この言葉の背景には、若かりし僕に刺激を与えた幻冬舎社長、見城徹さんのこんな名言がありました。

~友情だけはギブアンドテイク~
自分を刺激してくれない友達や、新しい地点に連れていってくれない友達は、僕はいらない。一緒にいると気分がいいとか、気が楽だという人とぬるま湯につかったような時間を過ごすなど、意味がないと思うからだ。

『人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない』より

この言葉がどこかにあったから、友情というものをギブアンドテイクに基づく、打算的な関係と僕は捉えてしまっていたのだと思います。

堀江貴文さんとか、著名な成功者には似たような言葉を残している人も多い。

だから、自分と同じように、切磋琢磨し合えない友情は不要、と考える人も結構いるのではないかと思っています。

情報ではなく身体感覚を観察すれば、自分が求めているものは分かる

見城徹さんのような人は見城徹さんのような人で、彼が定義した友人関係、というものがあり、それを大切にしているのだと思います。

それを否定する気は全くありません。

ただ、僕が友人に求めていることは、ここ1年で明確になりました。

それは、「何をしても、何もしなくても、そこにいられる安心感」です。

自分が何をやっていても、仮に社会的に落ちぶれたとしても、彼らはたぶんあんまり気にしない、笑
僕もそう。

ただ、こうしてたまに集まって、お互いの人生を共有し合いたいな~と思っています。


そして、このような時間を過ごすときに、自分の身体は心地よさを明確に感じます。

人間じゃないときはこの身体感覚に気付くことができませんでした。

当時も、身体感覚としての幸福感はきっと存在していたはず。
ただ、高め合えない友情はいらない、という思い込みが強くて、この幸福感を身体で捉え切れていなかったんだと思います。

誰かの情報ではなく、身体感覚に気付いて価値づけをすること。

これが出来れば人生はもっとシンプルになる気がします。

明日になれば忘れてしまうような他愛のない話を楽しめるのは高度なこと

去年の年末に久米島に帰りました。

その時に時間を過ごした方からもらった言葉が素敵だったのと、ちょっと意外だったので最後にご紹介します。

明日になったら忘れてしまうような他愛のない話、軽口、馬鹿話も、そんな瞬間も尊い時間だと思えるようになれたなんて、かなり高度な事だと思うよ

人間じゃないときは、他愛のない会話に意味を見出せませんでした。
ただ、人間にとっても、そのような時間を楽しむことは実は高度なことなんだと、驚いたんですね。

たしかに、、、

市場経済の元では、「生産性を上げろ」と言われて、時間当たりの提供価値を最大化するように求められる。

スピリチュアルな界隈では、「使命を全うしなさい」と意義のある人生を送るように求められる。


生産性、意義、意味、、、いろいろな文脈で我々は『価値』を出すことを求められすぎているのかもしれません。

でも、『価値』もどこかで人間が定義した尺度に過ぎなくて、本当はそんなものは存在しない。

価値がある、価値がない、本当はどっちでもなくて、だからこそどっちでもいいんですよね。

もちろん、価値を出せた方がお金を稼げるので、私は今後もっと価値を出していきたいと思っています。

それでも、価値のない時間も楽しめるように、これからも人間でいたいなと思います。

最後まで読んでくださりありがとうございました!

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