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松籟庵便り

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盈進義塾興武館ホームページで連載している、館長小澤博の風まかせ筆まかせ読み切り剣道コラムのアーカイブスです。
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#コラム

はじめに:松籟庵(しょうらいあん)

 最近、私の若い頃を知る人には信じられないほど早起きになり、小野鵞堂先生の『三体千字文』を手本に手習いをしていた。その中にこんな文章があった。 「索居閑處 沈黙寂寥 求古尋論 散慮逍遥」(p.127) 訳すと以下の通りになる。 「自分からタイミングよく勇退した後、閑静なところに移り住み、毎日を物静かに暮らして世の中のことにあえて口に出さず、穏やかに過ごしている。古書を繙いて、昔の人の残したよい事をあれこれ論じたりして、煩わしい世事から心を解き放し、山野をさまよい歩きなが

その5:剣道と哲学(1) ―温故知新―

 祖父愛次郎は10代の頃、実家の田島家が開設した私塾「盈進義塾」で、旧佐倉藩の儒者倉田幽谷から四書五経を学んだ。そのため40代半ばまでは儒教的精神で世の中に処していたと思う。その一つの現れは、父の名前を見ると分かる。「丘」と書いて「たかし」とは当て字だと父は言った。「丘」とは孔子の名前なのだ。孔子の名前は「孔丘(こうきゅう)」という。それにしても、祖父は恐れもなく偉大な聖人の名前を付けたものだと感心する。そういう訳で、父をよく知る人たちは「キュウさん、キュウさん」と呼んだ。

その4:満壽屋(ますや)の原稿用紙と玉利先生作の竹刀

 東京理科大学在職中のこと。教授から「原稿用紙(400字詰)5枚を毎日書くと面白いよ」と言われた。いいことを聞いたと、その気になって65歳の定年退職まで41年間書き続けた。ただ、最後の5年間は職務が忙しく少し怠けてしまって悔いが残る。  行きは中野始発で秋葉原→上野→(常磐線下りで)柏、さらに東武野田線に乗り換えて運河という3回乗り換えたが、すべて下りだったので必ず座れた。帰りも車内はガラガラで往復4時間は私の時間だった。 鞄の上に原稿用紙を置いて校名入りのボールペン書き

その3:8月16日

 森島健男先生が98歳でお亡くなりになられた。 『松籟庵便り(2)』の最後で、「初心者のために『木刀による剣道基本技稽古法』を作ったのはそのためである」と書いた。この基本技稽古法を中心となって作成したのが森島先生だった。何と偶然なのか、『松籟庵便り(2)』を出した日付が、森島先生がお亡くなりになった8月16日なのである。  先生には何度稽古をお願いしたか分からない。講談社の師範をされておられたので週に一度は必ずお出でになった。曜日が決まっていたので、その日は必ずお願いした

その2:盈進流稽古法(2)

 戦後、昭和27年(1952)10月、剣道は「競技剣道」として再出発した。そのためにどうしても試合の勝ち負けが中心の話題になり、健康や体力の保持増進、精神の鍛錬(不動心や平常心)、日本人としての礼儀作法の励行等が疎かになってしまった。まあ70年近く過ぎたのだから仕方ないのかもしれないが、日本人が本来持っている「心」を忘れてはならないと思っている。私は6歳の時に剣道を始め、64年間剣道界をつぶさに見てきたからそういうふうに感じるのかもしれない。  その一つの原因は、「日本剣道

その1:盈進流稽古法

 盈進義塾興武館(以下、「興武館」)の会員で、現在新型コロナウイルス感染症対策分科会々長の尾身茂氏は今年一月から多忙のため稽古を休んでいる。読売新聞8月8日の朝刊第一面に、「感染状況4ステージ」という見出しと共に、西村経済再生相と並んで尾身氏が苦渋の表情を浮かべて(マスクをしていたが、その内側には苦渋の表情が見て取れる)写っていた。終息はいつのことになるのやら……。東京は8月初旬から連続4日間、400人を超える感染者が出ている矢先の新聞報道だった。           *