【メモ】オリンピック関連の容姿の件で思うこと

2021.03.22

一応、未来に読み返したときのために、ニュースの内容を書き留めておく。
オリンピックの演出責任者の人が、オリンピック開会式の演出の案をグループライン内で話し合っているときに、女性芸能人の容姿をネタにするような案を出して、それが1年経った今頃になってリークされた、という話。

僕はサンデー・ジャポンが好きで毎週見ているのだが、
今週、この問題についてスタジオで色んな人がコメントしていることについて、
違和感しかなかった。

普段は太田さんのコメントも首肯することが多いけど、
今回はなんとなく腑に落ちない。
ゲストのコメントも、すごく的外れに聞こえたし、
「ブタは駄目で、ネコならいいのか?」というかんじで議論が明後日の方向に向かっているように思った。

なんでこんなに違和感を感じたんだろう?

ジョジョnoteを書きつつもやもやしていたのだが、
自分としては腑に落ちる答えが一応出たので、書き留めておこう。
時事問題だし、センシティブな内容だから、
下手に広まって批判されたら消します(弱腰)。

1. 議論の本質は、「ユーモア」と「侮辱」の境界線では?

先に、僕が腑に落ちる答えを書いておく。
「ユーモア」と「侮辱」の境界線こそが問題の本質のように僕は思う。

この回答に至った道筋を展開してみる。

2. 「正しいか・正しくないか」でいえば、身体的特徴を題材にすることは「正しくない」

価値観は時代とともに変遷していく。
しかしながら、「人道的なこと」「人として大事なこと」という価値観は、
変遷していくというよりは、
「今までは不問にされていたけど、これからは問題として扱われるよ」
という具合に、累積的に更新されていくものだと思う。

ちょっとややこしい書き方になった。
例えば、服装とかデザインなんかは、流行り廃りがあって、
今はヒットしていても来年には古臭くなったり、
逆に、昔はダサかったものが、再評価される、ということもありうる。

だけど、「人として大事なこと」の価値観は、
「昔はOKだった(取り沙汰されなかった)けど、今はNG」はありうる。
でも、
「昔はNGだったけど、今は再評価されてOK」ということは起こらない。
30年たったら、容姿を題材にすることが再評価されてOKになる、ということは考えにくい。

だから、今現在の世の中で、
「身体的特徴を題材にすることは、正しくない」
ということが認められているわけだから、
ここはそもそも論点にすらならないのだ。

3. 「人として正しくないこと」が世の中に溢れているのには、別の理由がある


「身体的特徴を題材にすることは、正しくない」
この認識は、世の中に広まりつつある。
でも、よく考えてみれば、小さい頃から言われてこなかったっけ?

人のことをブタって言ったら、僕が小さい頃だって先生に怒られてたと思う。

だけど未だに、大手企業のCMでも女性芸人が豚鼻をつけてCMに出ている。


これは、「面白い = ユーモアがある」と造り手側が思っていて、
受け取る視聴者の側も「面白い」、あるいは「問題はない」と思っているからだ。

問題の本質はここなのでは?


4. 問題のゴールは「パブリックな場から、ユーモアの皮をかぶった侮辱がなくなること」


人の容姿を侮辱する。
これが人間のコミュニケーションの中から根絶されるとは考えがたい。
なぜなら、悪意を持って、陰口を叩く場面が消えることは考えにくいからだ。
ただ、悪意を持った陰口は、発言する側に相当のリスクがある。
だから、そういった発言は限られた身内の中で抑えられて、それ以上パブリックな場に出てくる可能性も低くなる。
(今回のようにリークされれば話は別だが)

侮辱がパブリックな場面に出て問題になるケースは2つある。
1. 「悪意がない」場合
2. 「悪意はあるけど」、それ以上に「ユーモアがある」と勘違いしている場合

1. の方は、言った側の価値観がアップデートされていなくて、
全く問題意識がないままに発言してしまう場合だ。
例えば、おじさんが「悪意なしで」女性に出産のことを質問したりすることなど。
こちらの場合は、悪意なく発言してしまった人に過剰反応して、糾弾することは問題の解決をむしろ遠ざける可能性が高い。
(むやみやたらに非難されたら、意固地になってしまう)
それよりは、「今どきはそういう発言は良くないんですよ」と、
価値観のアップデートを促す方が穏便だろう。
非難や糾弾はその後でもいいと思う。

大問題なのは、後者のケースだ。

森首相の発言もこちらに含まれるのかもしれない。
(「悪意なし」で「ユーモアしかない」と思っていた可能性もあるが…)
多少悪くても、面白ければまぁ良くない?
こういった意識が根底にあるから、
小さい頃から当たり前に言われている「人を容姿で侮辱するな」ということが、
未だにパブリックな場に蔓延しているのではないか?

こういうふうに思っている人は、非難されるとこうやって逃げる。
「いやいや、冗談じゃん。何ムキになってんの?」
学校内のいじめがこうゆうところから始まりやすいのも、
「ユーモア」と「侮辱」の境界線を勘違いしていることが、温床になってはいないだろうか?


5. 「正しい・正しくない」で対立すると、断絶に向かう

先日のサンジャポを見ていて、率直にそう思った。

理屈の上で「正しい側」は、自分の意見を変える必要なない。
それ故に、「正しくない側 = 容姿を侮辱してしまった側」の意見に耳を傾けるという態度も取らなくなりがちではないだろうか?
(実際、某タレントは間違ってる、間違ってるの一点張りだった)

しかし、「正しさ」を主張するだけで、問題解決に向かうだろうか?

侮辱された当事者が「正しさ」を主張することは、難しくはないだろうか?
「私は傷ついた、あなたは間違っている」
これをさらっと言えれば、最初から問題にならないのでは?

周囲で批評するものは、侮辱した側を「間違っている」と非難するだろう。
しかし、それは「侮辱した側→侮辱された側」という攻撃に、
「周囲で批判する人→侮辱した側」という攻撃が加わっただけで、
問題の解決には向かわない。
侮辱した側は、平謝りするか、意固地になるかの態度を取ってしまうから。

また、逆に「いやいや、冗談でしょ。ごめんごめん」と、
侮辱の事実をキャンセルされてしまえば、
問題は解決せず、侮辱された側は「冗談を解さないユーモアのないやつ」という
二次被害も受けかねない。

とにかく、「正しい・正しくない」という対立軸は、
侮辱される側の重荷が強すぎるのだ。


6. 「それ、面白くないから」が解決策では?


そもそも、「人としては正しくないこと」なのに、未だに世の中に侮辱が蔓延するのは、ひとえに「ユーモアがあるから」という感覚が共有されているのが原因ではないか?

ならば、最も有効な解決策は、「それ、面白くないから」という感覚を共有することなのではないか?


一昔前に、とんねるずの番組で、性的マイノリティーを侮辱ようなコントが
「時代錯誤である」という形で非難されていた。

僕はあのときも「なんか違和感あるなぁ」と思っていたが、
今回の記事にあるような考え方をすれば納得ができる。

「正しい・正しくない」で批判されれば、
制作者側 = 侮辱してしまう側は、「時代が変わって面白いことができない」と、
問題の論点を「時代の側に問題があって、自分たちのやりたい面白いことが表現できなくなった」という方向に変えてしまう。
これでは、問題を自分事として考えるチャンスを逃してしまうだろう。

しかし、「それ、面白くないから」というカウンターは、
「面白いこと = ユーモアがあること」が生命線である側にとって、明らかに致命的だ。
正しい・正しくないの前に、あんたらは面白くない
このような感覚の共有が進めば、
容姿の侮辱問題は「侮辱される側」ではなく、
「侮辱する側・侮辱を発信する側」が自分の存在意義を揺るがされる危機を乗り越えるために、本気で意識改革をするきっかけになる。

また、「面白いか?ユーモアがあるか?」というやり取りは、
双方のユーモアの感覚が一致した時に初めて成り立つ。
「それ、面白くない」というリアクションを起点として、
では何が面白いのか?という双方向のコミュニケーションが始まる可能性がある。
侮辱される側は、侮辱のリスクや被害が減って嬉しい。
また侮辱してしまう側も、自分のユーモアが進化して、気持ちよいユーモアを表現できるようになるチャンスがある。
双方にとって、周囲も含めてポジティブな方向に向かう可能性が開けている。


この視点に立てば、我々一個人にも、明日からできる対応策ができる。

「『侮辱だ!』と思ったら、愛想笑いをしない」


積極的に行動を起こす必要はないのだ。

ただ、侮辱発言に伴う「笑い(愛想笑いを含む)」の数が減ればいいのだ。

人としてもあまり良くないし、ましてや笑いが起きなかったり、
場の雰囲気が悪くなるような発言は減少していく(と願いたい)。


まとめ 「侮辱は侮辱」「ユーモアはユーモア」


判断するのは難しいかもしれない。

確かに、ユーモアというものは「常識と非常識」の境目から生まれるものだ。

だけど。
いや、だからこそ。
自分が所属するコミュニティーのユーモアのレベルを上げるためにも、
「それは、非常識」という意思表示も重要だと思う。

「不快だ」と思ったら、それは自分にとってユーモアではない。

気持ちよく笑える世の中になったらいいね。

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