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誕生、小学校入学

(誕生)
昭和 4年 9月 11日 集落に赤痢が発生し、自分の村が隔離されている最中に、私は生まれた。 父は監視をくぐり、山の中を産婆を背負って連れて来た。と聞いている。

同年、満州事変勃発。満鉄『盧溝橋事件』から、支那事変、太平洋戦争へと拡大。 世界は日本の“侵略戦争”とし、日本は東洋諸国を「植民地」から、解放する戦争だった。 東洋の『八紘一宇』 の理想実現の、戦いだった。後年、小学五年の時、都城から宮崎の大淀河畔に "八紘一宇”の塔建設のために、石を積みに行った事を覚えている。【今、”八紘一宇”の塔は、どうなっているのか、調べてみたい】

(小学生時代のこと)
昭和10年 4月 都城市立 五十市尋常高等小学校へ入学。 自宅の築庭には、父が、棚を作って整枝された黄楊(ツゲ)の大木が、三本あった。 季節には、白い小さな花が咲き、青い実は熟れると、黒くなり軟かくなっていた。 入学と同時に、全校生徒“暁虫駆除”の「海人草」を(五右衛門釜)で煎じ飲まされた。 当時、焼虫で栄養失調になり、痩せて、腹だけ大きくなって、死ぬ子供もいた。
黄楊の大木の下は、ツツジ、万年青が手入れされ、花の好きな父はシャクヤクや、 ラッパ水仙の花が咲くと学校へ新聞紙に包んで、持たせてくれた。

私は虚弱体質で、夏は朝礼でも失神して、衛生室(介護室)で気が付く。 冬は扁桃腺炎の熱で欠席が多く、春が来る頃は手足の霜焼けが崩れて、膿が出た。 冬、霜焼けの処置で、朝遅くなったが、”餓鬼大将”達が待っていて、暖かい焼き芋を握らせて、学校まで連れて行ってくれた。 冬は、何時も綿入りの羽織を着て、着ぶくれて遅刻する事もあった。

村はずれの杉林の端に、麦藁屋根に麦藁で囲んだ、初老の姉弟の住まいがあった。 大正の桜島大噴火で遭難した姉弟で「集落で面倒を見る事になった」と聞いていた。 「牛根ばあさん」と呼んでいたが、冬、牛根ばあさんの家までたどり着くと、囲炉裏 に座り込み、学校を休む事も度々あった。米や餅等、何時も母が持たせていた。

小学一~二年の出席日数は、病気欠席が多く進級ぎりぎりの状態だった。 成績は、一番か二番で、終了式では「右 総代」で、証書を拝領した。
当時、成績の一番が級長、二番が副級長で、修了証は成績一番、成績優良賞は成績二番が総代で拝領していた。
五年生の頃から元気になり、毎週月曜恒例の全校生徒の分列行進では、指揮号令で 最前列に立ち「分列に前へ 進め!」号令と同時に、膝を高く上げ ”たっ! たっ! ” と前進。式台の手前で「頭一右!」と、後ろに続く全員に声が届くよう号令する。
毎日、放課後は指揮号令の稽古で、塵焼き場の土手や、近くの川堰の上に立たされ、 発声練習と号令練習)で鍛えられ、涙をこぼしながら、健康になっていった。 指導は、男子組の担任、待木先生だった。 『待木先生は大戦で、戦死された』

北京・南京が陥落した時は、小学校低学年は昼間市内を旗行列で回り、高学年は夜、提灯行列で祝った。
戦死者の遺骨出迎えや、負傷兵出迎えは、都城駅から二十三連隊(現在の自衛隊)迄、 道路沿いに並んで出迎えた。連隊の塀越しに陸軍病院がおり、慰問にも行った。 祝祭日は「奉安殿」から、両陛下の『御真影』を出して、式典が行われた。

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