固定概念を持たない生き方

私はできるだけ固定概念を持たずに接しようと思っている。

小学生から大学生になるまでの間、ボランティア団体に所属していた。
中学生から班長となり、高校生から指導者となる。
100人もの面倒を見る立場になった時、子どもたちに「こうだ!」と決めつけてしまうとその可能性を奪うことに気づいた。


たとえば、キャンプの練習としてご飯の炊き方を練習するからおかずになる缶詰を持って来いという指示を出した。

ツナ缶を持ってきた子がいた。

ツナ缶をそのまま食べたことがある人はお気づきだろう。
ご飯のおかずとしては欠ける。
私がやや引きつってそれを見つけた時、持ってきた子が言った。

「ツナ缶が好きだから!」

恥ずかしそうに隠しながら食べているのは、それが自分でもおかずとして持参してみたものの、みんなと違うと気づいていたから。
ただそれは恥ずべきことではないと思い知らされた。
好きという感情に勝るものはない。
私は、他の子と違うとわかっていても缶を開けて食べていた姿に心を打たれた。

好きなことは恥ずべきことではない。

だから、ものすごく褒めた。
その行動はカッコいいと称賛した。


また別の時、キャンプでとんでもないものを生成した子どもたちがいた。
ドレッシングを自分たちで作ろう!という内容で、班の中から3名だけ呼んで、料理が得意な大人に作り方を教わり、その場で好きに調味料を使って作ってみる。

小学生のドレッシング作りは危険だった。

色んな調味料を使えることでテンションが上がってしまった一つの班の子ら。
見るからにヤバいものが出来ていた。
それでも、作ったなら責任を持って食べることを強く言って継続させた。

持ち帰って班で食べている様子を見に行ったら、全員が身悶えていた。
子どもたち用なので辛味の成分は無いので、その手の危険性はない。
味見させてもらったけど、とりあえずクソまずかった。
一緒になって身悶えた。
ある意味、あの普通の調味料でここまでまずいものを作れるのは才能じゃないのかと思うほどだった。
その時、作った子が言った。

「これもキャンプの思い出!」

連帯責任を取らされた班の子たちはたまったもんじゃないはずなのに、この一言で大いに笑ってまずい!って言いながらみんなで食べていた。
このドレッシングはきっと、あの子たちにとっても思い出になったことだろう。


子どもたちの自由な発想と才能、純粋な気持ち。
私はそれを、固定概念を押し付けることで失わせてしまう気がした。

それは子どもだけはない。
大人こそ、たくさんの経験を積んで今を生きているので、思わぬ引き出しをいっぱい持っている。
表面上の身なりや口調だけを取って「この人はこういう人だ」と決めつけるのはもったいない。

男なのに、女なのに、子どもだから、大人だから。

確かにそうかもしれないけど、人間はそれだけじゃない。
色んな面を見てみたいから、私はできるだけ固定概念を持たずに接しようと思う。

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