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「民主主義のエクササイズ」について

岸野雄一さんの「民主主義のエクササイズnote版」を読んだ。

6月16日に発売予定の、「ニューQ・Issue 03名付けようのない戦い号」に掲載される原稿を、発売前に公開するというもの。16日以降は雑誌でのみ読める。

頷くところ多々あったので、ネット上で見られるのはあと2日の話だがメモ書きとして。以降特に断りなく枠の中で表示するのは岸野さんのnoteからです。

多様性のグラデーション

いきなり初っ端から、その通りとしか思えないくだりが。「ニューQ」の今回の企画の発端がそもそも岸野さんのツイートであり、そのツイートが下記であるそうです(太字部分は筆者強調)。

テーマは「責めても構わない対象への容赦ない呵責が加速する中、それに同調するか否かの表明による承認が可視化され、その結果、住み分けという名の分断と断絶、及びその対立が加速する世界において、いずれに与することなく、この世界を現実的に一ミリでも良い方向へ動かす為の名付けようのない戦い」

私はSNSはこの世界にないほうがいいのでは、と思ったりしている人間です(このテキスト等noteで何度か書いているはず)。その理由の多くが上記にある部分、そして、少し長いのですがそのまま引用する以下の部分にあります(上に同じく強調部分は筆者)。

 私は子供の頃から各地の盆踊り会場を行き来して、どこでどの曲が掛かるかトラックリストのノートを作り、現在は廃れてしまった町内のお祭りや盆踊りをアップデートして復興させようという活動を続けています。古来より「祭り事(まつりごと)」は「政」と書きます。文字変換で出てくるので試してみてください。つまり昔は政治と祭りは直結していたのです。それは今でいう「政治」とは規模も考え方も違いますが、地域社会における人々の倫理や、村の掟のような法律に相当するもの、また支配者の統治方法、などを指しています。私は日本の伝統的な行事を継承しようとしている姿勢から、たまに保守寄りの人物とみられる事があります。それはそれで一向に構わないのですが、本稿で私が書こうとしていることは、いわゆる逆張りでもリベ負け論でもDD論(どっちもどっち論)でもありません。現場に出てアクティブに動いているリポートを常に拝見しているので、私の周りにいる知り合いについては、そうは思わないのですが、SNSで散見するリベラル寄りの人たちが、ニュース番組のコメンテーターのようにSNS上に自論を書くばかりで、いっこうに手足を動かさない感じがすることに業を煮やしている感覚はあります。では実際にその人たちが何をしているのか?というと、生活の中でできる範囲の事をしているのだと思います。それはそれで尊い事ですが、本当に自分の生活範囲で、ご近所さんや同僚、上司などにアプローチをしているのかは問いかけたいと思います。

私自身は多分それなりに左寄りで、今の政権に対してポジティブに思える部分はあまりありません。同様に野党が政権を奪取してもポジティブな変化が起こるイメージも申し訳ないが想像しにくいけれど、しかし与党を消極的に支持するわけでもなく、国政選挙で自公への投票は基本的に考えない人間です。

ただし、岸野さんの仰る「えーっ?私の周りでは誰もほにゃららさんに投票していないのに!」については本当に理解ができません。

これは岸野さんが、ではなくそう云う方が、です。

いや、いるだろう。それはその人の世界が狭いだけだろう。そんなことを思ってしまう。

直接の知り合いで言えば、私の場合も与党、住んでいる東京都の知事選でいえば小池百合子を支持しない人が多数派でしょう。でも、少し見回したら、普通はいないだろうか?

ここで「普通」という言葉を使うのは危険かもしれません。ただ、自分が野党支持者で、周囲に与党支持者がまったくいないのは普通なのか。知り合いじゃなくても、少し視野を広げたら「あのお店の人は与党支持だろうな」とか。

「自分の周りには一人もいないのになぜ自公、小池さん、大阪でいえば維新が勝つのかわからない」

一度や二度選挙結果を見てそう思うならわかるのだけれど、それが続くのであれば、自分の「普通」を疑ってみてもいいのでは。別に、普通だから立派なわけではなく、社会の中に思ったより自公に投票する人がいると思ったところで、自分の投票先が変わるわけではないでしょう。また、仮に変わったら変わったで、その人にとっては悪い変化ではないでしょうし。

岸野さんの仰るように、手足を動かすのは簡単ではない。私自身考えが違う人と政治的な話をするのはストレスだし、滅多にすることはない(しかし与党に投票する知人とそういう話をした経験がゼロというわけではありません)。

ただ、自分とは違う「普通」を持つ人たちがいそうな場所に足を伸ばして、そこで交わされる言葉に耳をそばだてることくらいは、してみてもいいのではないかと思うのです。

というか、私自身、他者に働きかけることで世界を良い方向に動かすための努力をしようとは一切思っていない(自分が生活の中でする言動はできるだけそうありたいとは思っています)。それよりも、各々の思想を尊重したい。なので、よほど危険な考えの持ち主でなければ与党に投票する人がいたら、その人の考えを変えさせたいとは思わない。また、危険な与党支持者がいたらいたで、おそらく反撃を恐れて何も言えないかもしれません。

ただ、少なくとも選挙で勝利している政党・政治家を支持する層がまったく見えていないのは問題だと思うのです。

だって、本当に社会を良くしたいのであれば、その層を理解して働きかけることでしか、変えようがないじゃないですか。

本当に見えていないのであれば、その先の対話を試みるか否かは別にしても、見える位置まで行くことくらいはしていいのでは?

また、もしかしたら本当は見えているのにSNS上でそんなポーズを取っている可能性もあるのかもしれません。失礼ながら、もしもそうであるなら滑稽ですらある。それって、猫原理主義者が「私の周囲に犬好きなんていない」とツイートするようなものですよね。本当に周囲にいないとしても、そんなことを言ったところで猫の便益には一切つながらないし、それどころか猫を理解しようとする犬好きの心証を害するデメリットすらある。

とはいえ、この類の発言にもメリットはある。それが「同じような原理主義者の称賛を浴びられること」でしょう。

その愉悦を求めて思想の左右問わず極端な方向に振れてしまう人を増やしてしまうのが、私の思うSNSの最大の問題点かもしれない。その先に、(個々人のレベルではあるのかもしれませんが)大きく社会において良いことが起こる気がしない。左派が左派に喜ばれることをツイートして何回リツイートされても、左派のそれが右派に「野党に投票するべきかもしれない」と思わせる効果があるとは思えません。

これは右派も同じで、右派が右派に喜ばれることをツイートして何回リツイートされても、右派のそれが左派に「与党にも見るべきところがある」と思わせる効果はありませんよね。選挙結果が出るたびに左派を小馬鹿にしたような右派の発言が目につくことがありますが、居丈高にしている割には、そして野党が支持を伸ばせるようなちゃんとしたことをあまりできていない(私にはそう見えます)割には、自公の得票率も特に伸びているわけではない。

要するに、同調を求めるような強さを伴うSNS上での発言の応酬で、社会を変えられることは滅多にないのではないか。それよりも、創価学会員の公明党への投票のお願いの電話のほうが、よっぽど大きく社会を動かしていると私は感じています。

そして、そんな「お願い」がある程度効果を発揮するのは、「SNSで大きな声を上げるほどの強い政治的な旗色」を持たない人が少なからず存在するからでしょう。最初から共産党や自民党に投票すると強く決めている人がお願いされたところで、ほとんどの場合公明党に宗旨変えしませんよね。

本当に社会を良い方向に変えたいのであれば、(少なくとも現在の日本であれば)左派が見えていない場所に存在する層に働きかけるのが最も効率的であるはず。ところがSNS上では「声の大きな左派」と「声の大きな右派」が目立つばかりで「声なき無党派層」が視界に入りにくい。左派よりもN国や立花孝志のYouTube動画のほうが、よほどそこにリーチできている(「できていた」とするべきかもしれない)のが現状だと思います。

つまり「えーっ?私の周りでは誰もほにゃららさんに投票していないのに!」は、本気の発言なら、積極的な「ほにゃららさんの支持者」に加えて、消極的な支持者やどっちでもない人など、「声の大きな左派」と「声の大きな右派」の間にある―もしかしたら数としては一番の多数派かもしれない―グラデーションの中の中間層が見えていない、という告白と同義なのでは?

左派のこの種の嘆息には、同好の士の共感を誘う以外の利はないのに、害は多いように思えてならない。単純なたとえですが、グラデカラーを2階調化すると白と黒の2色だけになってしまいます。

名称未設定-1

名称未設定-2

上の画像をしきい値128で2階調化(黒と白に分かれる)して、真っ白だと背景と一体化するので白部分を少しグレーにしたのが下の画像。

実際には野党の積極的支持者は赤~ピンク部分、与党の積極的支持者は黄~黄緑部分くらいしかいないだろうに、紫~水色部分が見えていない人があまりにも多いのではないでしょうか(そもそも左派と右派が両極端な位置にいると見せること自体が良くないと思うのだが、わかりやすさ優先でご容赦を。人間の位置を大きく分けるのは政治信条ではなく人間観であり、カラーバーの各所に左派も右派も偏在している―というのが個人的にはしっくりくる)。

ネット上の支持の渦を大きくしたいだけなら、好きにやればいいと思う。

…とここで一旦話が逸れるが、上の太字部分を無意識的にタイピングしており、こんな底意地の悪い書き方をできる自分は、岸野さんほどではなくともSNS上の政治クラスタに腹を立てていることを改めて認識しました(どちらかといえば右派にムカついているけれど)。正直私は、そういう人たちは本気で社会を変えたいとは思っておらず、自分のプロップスを高めたいだけではないかと疑っている。だって、そんなに頭悪くないでしょう。ネット上でちやほやされる方々は。手足を動かさないと社会は変わらないってわかってない愚か者とは思えないんですよね。まただからこそ腹が立つのだが。

話を戻します。でも、その渦が大きくなればなるほど、その外側にいる人からは竜巻みたいに危険でとっつきにくいものに見えてしまう側面がどうしてもあるのでは。

ただでさえ、自分よりも社会に目を向けようとする視線に対して、岸野さんのnoteにある「Twitterなどでの書き込みをする人たちについては、一言でいうと「良い人ぶりやがって」という印象」を抱く人がいるのに、紫~水色部分を見ようとしない姿勢で支持者を増やせるのだろうか。

直接働きかけようとするかは別にしても、黄~紫部分の存在をちゃんと視認して、せめて「私の周りではほにゃららさんに投票する人は“ほとんど”いないのに!」と敗戦の嘆きをできるようにするのが、社会を変えるはじめの一歩になるように思うのです。

現状、「野党の得票を増やす活動」において最も効果的なのは、「紫や青や水色を赤に変えようとする」ことではなく、ましてや「黄を赤に変えようとする」ことでもなく、「紫や青や水色の人に宗旨変えを無理に迫るのではなく、色はそのままでも選挙の際には赤を支持してもいいかなと思ってもらおうとする」ことでしょう。そして、黄の層に向けて手足を動かすことに比べれば、中間層に向けてそうするほうが、まだストレスも少なく、効果も高い活動になるはず。

裏を返せば、グラデーションに目を向ける人をSNSが増やせるようなら素晴らしいと思うし、本来SNSにはそういう力もあるとも思っている。しかし、社会を変えるよりも、フォロワーや拡散数を増やすことに喜びを覚えてしまう人が多くなってしまい、悪しき部分が目立つようになってしまっているのではないか。先述した私の意地悪い見方が間違っており、フォロワーを増やしたり、拡散されるツイートをすることが社会変革に繋がると本気で思っているインフルエンサーが多いのかもしれませんが…。

リベラルの姿勢とは

自分自身は他者に働きかけて社会を良くしようと思っていない、とか書いた割に政治・選挙的な話をつらつらとしてしまった。一気に個人的な話になります。

SNSにムカついている理由、単に自分が嫌な思いをしたから、というのもあります。言い換えるなら、自分に飛び火したことで岸野さんの云う問題点を改めて痛感したというか。冒頭のツイートを再掲します。

テーマは「責めても構わない対象への容赦ない呵責が加速する中、それに同調するか否かの表明による承認が可視化され、その結果、住み分けという名の分断と断絶、及びその対立が加速する世界において、いずれに与することなく、この世界を現実的に一ミリでも良い方向へ動かす為の名付けようのない戦い」

この同調するか否か、感。私は本当に大嫌いで。

ここ10年で社会的なことはともかく、自分についてのことで唯一と言っていいくらい本気でブチ切れたことがある。それは、私がメモとして、自分的には否定的な感想を抱く右寄りな意見をリツイートしたときに、「こんなのリツイートするな」と知人が言ってきたことでした。

大前提として、私が右派で相手が左派であっても、人間的に尊敬し合うことは可能なはずなのに、SNSはそれを否定してしまう。「旗色を鮮明にすることが良い」と思う層が増えるだけならまだしも、反対側の考えを理解しようとする言動がダサいと思われてしまうのは問題だろう。私は相手のことを尊敬しており、そのような美点を持つ人間がこんなに頑なな否定をぶつけてくるのは、完全にSNSに毒されてしまっているなと思い悲しくなった。

まあ、それだけなら悲しいだけで済むんだけど、まず他人のTwitter運用法にケチをつけること自体が褒められたものではなく(真意を尋ねるとかもなく、初手から文句を言われた)、さらにリツイート=賛意ではないと説明しても相手の態度は変わらなかったので、「それはあんたらリベラルが嫌う言論統制じゃねえのかよ」と腹が立ってガチ切れしました。

これがSNSの本当にファックなところだと思うのだけれど、強い意見が目立つようになったことで、無意識的であれ、それ以外の意見の価値を低く見積もる人が増えていると感じる。私に対する相手の姿勢も同様で、向こうから見て、価値あるものを拡散できる手段があるのに、無価値な右派の意見をリツイートする行動は、攻撃して然るべき愚かなものと映ったのでしょう。

ただし、これ自体は言ってしまえば普通のことでもある。

日頃DIGしていないのであまり目につかないものの、右派でも似たようなことは起こっているでしょう。むしろ右派のほうが攻撃的な物言いが多い気すらある。

でも、右派ならまだ好きにやっていればいい。残念ながら。

ただ、左派ってリベラルじゃないですか。多様性を、自由を尊重するものですよね?

自由に責任が伴うように、リベラルであろうとすることは楽ではない。苦痛も多いでしょう。しかし、それでも、世界を2階調化しようとせずに、納得のいかない意見も含めてありとあらゆる多様性を一旦は懐に入れるのがリベラルのあるべき姿勢ではないでしょうか(たとえばヘイトスピーチなどは許容されてはいけないので、懐に入れて観察した後、それを認めず攻撃することはまったく問題ない。もちろん観察するだけでHPが削られるけれど、理想論ながらできるだけ一旦触れてみるべきだとは思う)。

良いことだとは思いませんが、右派は他の意見に目をつぶってもある程度成立する部分が多い。現状与党側=多数派なら尚更。でも、左派はそうではないと私は考えます。それが、リツイート1つにケチをつけるってなんなんだろう、と相手のことを本当にかっこいい人間だと思っていただけに、虚しくなりました。

SNSは「形だけリベラル」を増やしてしまう装置なのかもしれない。誠実であろうとすればするだけ、渦の外にも目を向ける必要が出てくるし、そうすると嫌な意見もどんどん目に入ってくる。そうして本当に見るに耐えないツイートを何度も見ていたりすれば、反対意見側へのヘイトが募るのも無理からぬところでしょう。

相当自覚的に気持ちを強く持っていないと、自分が許容できる範囲が狭くなっていく一方だろうし、行き着く先で「左派だと思っていた知人が不愉快な右寄りのリツイートをしていることが許せない」となるのは、想像でしかないものの、わかる気がします。

不利な戦いに楽に勝てるわけがない

しかし、それでも、左派は多様性を真に尊重しなければいけないはず。

現状以上に野党に票を投じる可能性があるのは、自分たちの渦の外にいる、今野党を支持しない層のみ。身内に支持されたいだけならともかく、本気で倒閣などを目指すなら、徹底的にリベラルたらんとする姿勢が欠かせないのではないか。少なくとも、恨みがましくてすみませんが、右派のリツイートをする左派に文句をつけている場合ではないでしょう。

バイアスもあるにせよ、はっきり言って私は右派のほうが不寛容で上から目線な人が多いと思っています(とはいえ割合が同じくらいだとしたら、与党を支持する人のほうが現状多いわけで、人数ベースでは実際に右派のほうが性格の悪い人が多くなるだろう)。

しかし、右派と左派が同じように偏狭で、右派ツイッタラーが与党に票を投じない人を上から目線で馬鹿にして、左派ツイッタラーが野党に票を投じない人を上から目線で馬鹿にして、双方が中間層から不興を買うようなら、与党が勝つに決まってるじゃないですか。現状与党が勝っていて、左派も右派も同じように嫌われていたら、中間層は行動を変える理由がない。

私は左派にとって、「基本的に負け戦である」という自覚を持つことが非常に重要だと思っています。

「えーっ?私の周りでは誰もほにゃららさんに投票していないのに!」は、そこから最も遠く、なおかつ中間層に上から目線を感じさせてしまう発言ではないでしょうか。

「なんで自分たちだけ」と左派は不公平に感じるかもしれない。でも、現状を変えるためには、右派よりも高潔な振る舞いをするべきですよ。

そうでなければ、わざわざこれまでと違う投票等の行動を取ろうとする人を生むのは難しい。確率の話でいえば、与党がとてつもないやらかしをすれば政権交代は起こりえるだろうけど、それを待つだけというのは建設的ではなく、そういう「やらかしを期待する姿勢」はあまり美しくない。少なくとも中間層の支持は得にくいのでは。

放っておいてもそちらは週刊文春がある程度勝手にやるでしょうから、市井の左派は意見の異なる人にも胸襟を開き、対話を試みようとする人間であることをできるだけ自分の言動で示す―それもSNSだけでなく、現実の生活においても―ことが重要なのではないでしょうか(左派が野党を厳しく監視してより良い政党にしようとするのが一番大事な気もするけど、ここでは触れない)。

そして、まさにそのような言動を現実社会でもSNS上でもたゆまずされているのが岸野雄一さんなのだと思います。大好き。


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