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なりたい私になりたい

5/26に書いていた文章を後出し。



久しぶりにnoteを書く気持ちになった。

どうやら、やりたいことを決意する時にnoteに宣言する癖がある。昔から、日記を書くぞとなったときには、やりたいことを書く。他人のやりたいことって、1番興味無い。結果、読むに値しない、つまらない文章になってしまう。

日記であっても、アウトプットとして書く限りは面白いものを書きたいじゃないか。

どうにかして、ここではない場所に行こうとする私。なりたい私の姿はいつも、曖昧であり、緻密でもある。

時にはすごく面白いことを言いたいし、時には繊細な感覚を持ち合わせていたい。
誰にでも寄り添える広い心や、誰かを特別に思う気持ちも自由に表現したい。
可愛いと思われたいし、変わってて鋭い視点を持っている人でいたい。
物を選ぶいいセンスを使って、誰かの実力を存分に引き出せる人でありたい。
自分の軸はもちろん持っているけれど、柔軟さもありますよってことにしておきたい。

「ってことにしておきたい」のだ。

誰かの目に私の行動が触れる限り、わたしが誰かに評価されることは避けられない。すると、評価される部分がOK(合格点)であれば、よいという狡さが生まれてくる。

職場での私と、プライベートの私の姿が違うことは公私を弁えているという点で良いとしよう。

しかし、どちらの私も人に「見られている」「見られていない」ということを意識しすぎて、合格点をもらうことに必死すぎていないか、気をつけたい。

自慢にもならないが、私はとても要領がいいので、「ここで何を言えば、何をすれば合格点がもらえるか」を知っている。

このタイミングで椅子を差し出せば、お茶をいれれば、黙れば、ちょっとしたユーモアをみせれば、微笑めば、弱みを見せれば、強い意志を見せれば…ということが瞬時に判断できてしまう。

気が利くね、と褒められれば嬉しいが、そこまでわかってしまう自分に疲れることもある。要領が悪い人を見ていると、なぜこうしないんだろう…と意地悪く思ってしまう自分も嫌いだ。

本質的に自分を磨くことについて考えている。誰かに合格点をもらえるためではなく、自分が自分を騙さないようにするためだ。

誰かの前で合格点をもらうとき、他者のことは騙せても、私の心は「それを演じている私」をみている。ずっと気持ち悪く思っていたこれを解消するには、本質的に良い人間を目指すほかない。

誰にも見られていない場所でも、自然にその振る舞いができるように。同じ行動をしたとしても、より直線的な動機でその行動にたどり着かねばならない。

動機と結果が屈折して繋がっている限り、そこにはなんらかの悪い感情が溜まるようになる。本当にこれでいいのかな、偽善じゃないかな…と。

しかし、動機と結果が直線で繋がるなら、そこはすごく滑らかになるはずだ。さらに生きやすく、自分自身も楽になるだろう。

単純化には、いつも大きな困難が伴う。シンプルなデザインであるほど、美しさを追求することは難しい。そこに哲学や思想、純粋な意志が伴わなければ、あまりにも浅はかなものに成り下がる。

私の大好きな思想家ベルクソンは、砂糖を水に溶かすには、「時間(持続)」が必要だと言った。溶けたように見せかけるのではなく、溶かすことに意味を見出すならば、そこには必ず持続的な努力が必要である。

エチカ






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