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1ヶ月書くチャレンジDay2


「今やっている仕事、学んでいること」

書くべきテーマからは少し逸れるのかもしれないが、今日は仕事と学びについて語りたいことを書く。

学生のときは、毎日学ぶべきことがあった。宿題がでて、数学や物理なんて分からないところだらけで、わからないことは質問はし放題、好奇心で大人を困らせることも学生の役目だった。

それがどれだけ幸せなことだったのか、大人になるまでいよいよ気づけなかったな。
もちろん仕事をしながら、人との出会い・自分の知らない知識のなかで学びがないとは言わない。

私の仕事は毎日、違う出来事や知識に新しく出会っていくような仕事だ。日々同じルーティンをこなすことは、ほぼない。
毎日の出来事や学びを面白いと思う一方で、そこから続いている道の先にあるものを考えて虚しくなることがある。それは「価値」や「損得」「経済」「コスパ」「需要と供給」といった類のもの。

どんなに好奇心を満たす知識も、大人としてそれを経済のルートに乗せると、それは商売道具になる。いくら人のためになることだったとしても、なんだか漂うお金のにおいは消すことができない。

私たちは売れるものを作らなくてはいけない使命があるし、売れるものをつくるからこそ社会が持続可能なのもわかっている。

しかし私にとって学びとは本来、益がなくても、きわめて美しいものだ。
学びがあれば、ただ純粋に世界を面白がることができる。それが経済や、損得勘定で侵されてしまう「仕事」は、とても残念なものでもあるのだ。

哲学はなんの役にたつのか?文系科目はなんのためにあるのか?という議論はしばしば浮上するが、私にとってはこれらは愚問中の愚問。

役に立たないなら存在するべきでないと排除するには、判断する時間が少なすぎると思うのだ。

何千年のあいだ繰り返し語られてきても尚、変わることなく探求され続ける学び。人が死に、次の世代へと移り変わり、世の中が変わり、政治や技術が変わる度に、「ふりだしに戻る」学び。
わからないことは、また初めから問い直して、先人たちの言葉からヒントを得ようとする。新しくなにかを編み出したかと思いきや、それは単なる奢りだったりする。

歴史から学ぶ文系科目は、過去をなぞる学びだ。理系科目は、もっと古い自然の摂理(神がいるとしたら神が創り出した事柄)をなぞる学びだ。

それらの学びを、私たちがわかったような気になって、経済の上で取り扱うことは、人間として仕方ないとわかりつつも、ひどく下品なことに思える。

いつまでも目を輝かせて、自分のために学ぶことができたらいいのに。ビジネスのために学ぶのはもうやめたい。


エチカ

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