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憧れ

7時に目が覚めるようになった。もっと早いときもある。

ほらやっぱり、私はやればできる子だ。

そう思う私はいつもふざけているだけ。

周囲が期待しているらしい、私の可能性に目をこらしたって、なにも見えないままだ。見えなくても進むしかない。

新しい環境になり、最初はいつも好調だ。しかし5月病をなめたらいけない。

私は5月病をこじらせて、何年も心の病気とやらと戦ったんだ。

今回は絶対そうならないよう、お腹に力を入れて過ごしている。

気合い論ではどうにもならない時もあるが、病は気からというのは事実だとも思っている。

ことわざは時に事実と矛盾するけれど、どれを信じ、生きることができるか、常に選択するのは、自分自身の意思より深い場所にある力だ。

ここ2日は寒暖差で体調を崩しかけているが、もう少しで持ち直しそう。


社会人のはじまり。毎日、楽しい。大学に入り自分の好きなことを学び始めたときと同じくらい楽しい。けれど、あのときの自分とは遥かに異なる自分と向き合って生きている。よく言えば無知を脱した成長を、悪く言えば純粋を失った感覚を噛み締めている。

憧れを持つことについて、考えている。

憧れに野心をもって近くことは許されるのか。私は許されないと今は思っている。

欲に負けてしまう自分が嫌いだからだ。自分にとって高尚な対象(つまり憧れ)に近くとき、その動機(モチベーション)が浅ましくては、いい結果にならない。対象に対応するだけの次元で、小手先ではない真摯な取り組みを行うことによってしか、真の意味でそこに移動することは叶わないからだ。周囲の目は誤魔化せても、その過程は自分が一番近くで見ているから。

しかし、対象となる憧れが人物の場合、純粋な動機と行動だけで、その人物がそこに居るかというとそれは別の話である。そこに行ったことがないし、対象に近づいたことがないので、わからない。そこは実際にはどうでもいい部分だけれど。

そんなことを考えている私は今、憧れの対象がいて、とてもいい刺激をもらっている。はっきり言って、すごい速さで成長している。

憧れの対象に野心をもって近くことは許されないけれど、憧れの対象に近づけるかもしれない自分の未来像に野心をもって近くことは許されるような気がして。

その対象には、買い被りすぎだ、そう笑われると思うけれど。

エチカ


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