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心のひきこもり day1

昼 お米を炊きながら、これを書いている。夕方はお肉などを買いにいかなくては。ブロッコリーも買ってカニカマと和えてサラダをつくろう。かぼちゃも、たっぷり甘煮にしよう。お醤油を買わなくちゃ。

今朝、まだ暗い時間に目が覚めた。心配事があったりして、どうしようもなく疲れている。少し前までは疲れを次の日に持ち込まずに、その夜のヨガと眠りで解消することができていたのに。

でも、この朝に曲をひとつ、つくった。寝ぼけ眼のまま、キリキリする胃とギターを抱えて、曲をつくった。

心が弱っているときほど、創作する元気はでるので、どうか心配しないでください。しばらく、無闇なSNS使用を控えて、最低限のまとまった文章と、作った曲の投稿などをしようと思う。

これを「心のひきこもり」などと名打ってコンテンツにしてしまうあたり、自分でも「私はタダでは転ばないな」、という感じ。企画魂である。

さいきん目が覚めても憂鬱なのは、大きな心配事ともやもや、仕事でやるべきことへのプレッシャー、そして違和感を感じていることから手を引くことができない、自分の弱さや狡さに嫌悪していることのせい。

それに付随して、過去の嫌な思い出もひっぱり出されてきて、思考がまとまらない。自分を整えなくてはと焦るばかり。

人生を、命を、もっと大きく捉えたい。それが死にたいという言葉に代わって口からこぼれでる。

以上のことはここで詳しくは語らないし、誰に相談するようなことでもないのだけど。

私はひとりきりの心が、どうしようもなく寂しく、同時に心地よく感じる。

しかし、そればかりではいけない。寂しがりの心を埋めることと、自分の内のものを外に発信すること、周りから新しいことを吸収することを……と、気張って心掛けすぎたこの頃。得られるものもあったが、疲れと共に限界を迎えた。

一方で人と話すことは、我を忘れるように楽しい。疲れるけど楽しいという矛盾。それは、頭のおかしいという意味の「我を忘れ」ではなくて、自分を失ってしまうことにも繋がりかねないという意味だ。

私は人に合わせようとする能力が高い分、受容してしまう。他者の思考を自分にとって毒だと気づかないまま飲んでしまうことがある。

曲をつくるとき、文章を書くとき、食事をつくるとき、眠るとき、その先にいる大切に思う人たちのことを考えながらも、一人きりでいなくてはいけない。そこで深みをつくりだせなければ、だんだんと本来の自分が薄まっていく。

情けない自分から逃げてはいけないのだ。情けない自分を愛さなくては。逃げて中途半端な気持ちを、むりやりな歌にのせていても、代償がやってくる。そんなことはわかっていたはずなのに、周りの好意に甘えていたなぁ。

逃げることは悪いことではない。他者の悪意から、社会の制度から、こうあるべきという幻想からは、可能ならば逃げるがいい。これは自分から逃げることとは異なる。

さて、納豆ごはんを食べたら仕事を進めよう。私の仕事を待っている人がいるぞ。

一人きりでも、誰かと一緒でも、安心は手に入らない。あぁ、安心したいな。

エチカ

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