人が傷つく時とは?言葉には色がある。

音痴なんだね〜

ノースリーブ似合わないね

笑いたくないなら、無理して笑わないでいいよ

 

文章でみると、大したことのない言葉。
だけど、これは私が長い間苦しめられていた言葉である!

同時に、私が言葉を大切にしようと思ったきっかけに繋がった言葉達でもある。もちろん、ここに載せていないショックを受けた言葉達もいる。

言葉には、色がある。

想いをのせたそれぞれの色が。
誰かを想いあふれだした言葉
気心しれた仲間達と紡いだ言葉
母をうつむかせてしまった言葉
色々な場面で色々な想いの言葉が今もこの一瞬あふれている。

今、使っている言葉はどんな色をしているのか

それは、木漏れ日のように控えめながらも優しさと暖かみで包み込むような色か

それとも暗闇の中でもそっと道しるべをひいてくれる月明かりのような色か

人間だから、自分が出したい色を出せない時がある。自分が満たされていないと自分が欲しい言葉を、色を、人にあげられない時がある。
そして時には、無自覚に人を傷つけてしまう事も。

なんてことのない言葉に刺されたまま過ごしていく事になる人がいる。

私は中学生の頃から、今でも人前で歌を歌えない。(仲良い人の前では歌えるようになった)

小学生の頃からつい最近までノースリーブの服を着ることができなかった。

笑いたい時に素直に笑えるようになるまで数年かかった。

 

きっと、私に言葉を投げた人は何年も何十年も心に引っかかりを持ったまま私が生きていた事を知らないだろう。

そして、それは私も同じく誰かを傷つけたまま今を生きているのだと思う。

誰も傷つけないで生きていく事はできないのかもしれない。

 

人は、人の言葉で傷つくのではなく自分の受け取り方で傷つくからだ。この考え方は最近読んだ本にあったもので、2つの価値観で人は傷つくという事が取り上げられていた。

”音痴なんだね〜”を例に挙げて考えてみると

1つは、音痴=恥ずかしいと思っている
2つめは、自分でも音痴だと思っている

この2つの価値観を持っていると人は傷つくのだ。

それが、片方だけだったらどうだろう?

音痴は恥ずかしい事だが、自分は音痴ではない。
自分は音痴だが、音痴は恥ずかしい事ではない。

そう、片方の価値観だけでは人は傷つかないし、片方の価値観だけを持った人はそれが傷つける言葉だと思っていないかもしれない。

だから自分が傷ついた時は、自分の価値観を知れる良い機会であり克服したいのであれば新しい価値観を取り入れれば良いのではないか。と今は思う。

それでも、時には人としてどうなのか?という事を言う人もいるのでそう言う人は端から相手にしない事にした。
右から左へ作戦だ。これも習得に年数をかけた。

そして、人に送る言葉は自分が欲しいと思う色だったり、相手が欲しいと思っている色を送りたい。違う色をのせてしまっても本当の色を送り直していけば、段々と深みのある色にしていける。

素敵な言葉を使う人は、歳を重ねても魅力はなくならない。それどころか、年々魅力を増していきたくさんの人が集まる人になっていく。たくさんの葉をつけた木に色々な動物が集まるように、彩り豊かな素敵な言の葉を持つ人はたくさんの人を安心させ癒してくれる。

私はそんな人になりたい。

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