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着地点がない。

正解はない。
自由。
好きに感じるままにでいい。

そうなんだよ。
そうなんだよね。
そうなんだけど。


こんにちは。
まだ眠い朝でした。


ひさしぶりにはじめましての人たちに会った。
ひさしぶりに頭がいっぱいになっていった。
ひさしぶりに依るべなかった。

ここ1年くらい、人に会わない、連絡もとらない、みたいな感じで過ごしていた。

周囲が遠くなるのと比例して、自然と落ち着いてきて、
「今までなにを追いかけていたんだっけ」と、フッと、隙間が入ってきた。
このフッとやってきた感覚、これには助けられた。
足元の地盤がスッと消失する畏れとともに、自分の0ポイントの発見につながっていった。

縄文時代には戻れないけれど、「隙間」は、生み出せるかもしれない。

「自然と落ち着く」は、有機的自律運動のはたらきに依るから、自らコントロールできることではないけど、
有機的自律運動が、のびのびと、そのはたらきを発揮する、そのような環境を持ち込むことはできそうだ。

周囲が遠くなるのと比例して、自然と落ち着いてきて、
「今までなにを追いかけていたんだっけ」と、フッと、隙間が入ってきた。

と、先に書いた。

わたしの場合は、人が多すぎると、星座に至れずオロオロする、粒とつながり線のままで星座に至れない、けれど有機的自律運動は星座に成ることを指向している、故に「折り合えない・拮抗する」という現象が起きていると思える。

「星座に落ち着けない」というとき、「人」の影響は大きそうだが、それは、「視覚」「動き」「音」などなど、これらのどれもが刺激の素として情報が多いし、予測もつきにくいからだと思う。

人の中に居る時、わたしは常に、アンテナのような感じになる。それは、意識してやれているわけじゃない。自然とそうなる。
衛星放送のアンテナみたいな、全方位へと意識が張り巡るような気がする。
30代の頃、バイト先の同僚に「電波だ電波」と、揶揄されたこともある。

はじめての人と居る場では、それがハイレベルで起動している。

しんどいのは、そうしたくなくても、そうなる、という現象。

自分が楽になるように、先に自ら名乗ったり、工夫はしてみる。
誰もわたしのことを気にはしていない、と、思おうとする。
出しちゃえ、さっさと自分をさらけ出す方が楽だぞ、と思ってそうしてみる。
他者を優先するな。自分の心の声をきけ。考えるな、感じろ。
そして、行動してみてるんだけど。

依るべないのだ。

捉えどころがない。
はじめての人と会うんだから当たり前だ、ふつうだよ、ともし言われたとしても
「当たり前だな」「これはふつうだな」は、わたしにはやってこない。

これは「頭で理解する」こととは別のところ。
「腑に落ちる」ようなわかり方がやってくるのは「頭で理解」の外っ側にある。

「腑に落ちる」と、「0ポイントに落ち着く」は、似ている。すごく近いところにある。

0ポイントに落ち着いて「腑に落ちる」がやってくるまでは、外っ側で、落ち着けない粒とつながり線がずっとチカチカしながら動いている。

暗中模索の真っ暗な中、ネオンがチカチカ、青・赤・黄・緑・紫・金・銀 変化しながら点滅している。
そんななかを歩いている。地面は見えない。ちょっとズレたら奈落の底かもしれない。
でも、すすもうしている。


はじめての人たちと会ったその帰り道、歩いて帰った。
どこにも依るべなくって、どうしたら自分が落ち着けるのかわからない。

ああ、もう少し、ゆっくり人と近づくべきだった。とか、
ああ、なんで全部出しちゃったんだろう。とか、
どんなふうに次に会ったらいいのか、もう不安。とか、
いろんな感慨があぶくみたいに湧いてくる。

どこにも着地点がない。

ひさしぶりに体がシクシク鳴った。
歩いたら、落ち着くはずだからと1時間歩いて帰った。
いつもの商店街が夜の姿だった。
写真を撮った。
最近買ったデジカメで撮った。
愛しい気持ちが湧いてくる。
カメラはわたしと一緒に、同じものを見てくれる。
同じものを見ているはずなのに、ちょっと違ったふうに見ているカメラがかわいい。


「わたしっていう現象」は、依るべない、ものすごく、心細いんだった、と思い出した。

写真があってよかった。
心細いまんまですすむんだ。

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