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【仕事編・初めてのアルバイト喫茶店②】 見過ごされる0ポイント

前回、下のように書いた。

〔身体の特徴の不平等〕
・ズレる。「つながり線の運動」と「星座」とのズレ。
・ズレる。わたし以外の人の「星座」と、わたしの中ではたらいている「つながり線の運動」とのズレ。タイミング。
・人とズレることでその調整にコストがかかる。
・コストがかさめばズレの調整は間に合わなくなってくる。
・わたしのしんどさは他の人に伝わらない(なぜならわたしという個体で有機的自律運動は起きているから)
・一人でしんどさを抱えることになる。

と、前回書いたけど、
しんどさが他の人に伝わらない、は、正確な言い方になっていない。

「不可視化」「透明化」「ないことになる」と、言い直してみたい。


・刺激の素に個体の受容体が接することで粒になり
・有機的自律運動のはたらきにより「つながり線」に向かう運動が活発化する

これらのはたらきはすべての生命に起きているとわたしは考えているのだが、もし最初の「刺激の素に個体の受容体が接することで粒になり」のところが、多くの人と比べて過剰な場合。

例えば、
・刺激の素に対して個体の受容体の感度が高い
・刺激の素を受け取る個体の受容体の数が多い
・刺激の素を受け取る個体の受容体が細かい
という場合を想定する。

その場合、同じ刺激の、同じ量に対して、粒になったりつながり線になったりという有機的自律運動のはたらきの活性化は、上のような個体ではない人と比べると過剰に活性化すると想像できる。

同じ刺激の素に対して受容体の受け取りの差 「平均的」 「過剰」
それは相対的

つまり、「有機的自律運動」という「はたらき」は同じなのだが、個体の中で起きている運動の「活性度には、個体差がある」、ということ。

これは小さい差ではない。
なぜか。

この現実世界に、「刺激の素」は、溢れているから。
世界が刺激の素そのもの、だから。

時間、という観念は、この刺激の素の重なりとも言えるのではないか。
つまり、時間の経過によってわたしたちは次々に刺激の素と接している。接してない瞬間なんかない。
有機的自律運動のはたらきは、その命が尽きるまで続く。
(もしかしたら、生命が終わったとしても、有機的自律運動のはたらきは世界の中ではたらき続けているのかもしれないが)

だから、受容体の差は、小さいことじゃない。
積み重なってくるのだ。

相対的にみて受容の過剰な個体にとって、受容の平均的な個体との差は、埋まらないどころか、開いていくばかり。

ここに、コストがかかってくる。
相対的に受容の平均的な個体は、受容の過剰な個体が過剰さに翻弄されていることを見過ごせる。感知できないから。
相対的受容の過剰な個体にとって、その場に平気にいられる個体を、不思議ではあっても、問い詰めることはない。
なぜなら、大多数の人が、相対的に平均値の受容体の特徴をもつ個体であるなら、そこに疑問は生まれない。
「なんとなく」そこにある運動、というだけで、特に意識されることはないだろう。

わたしは粒とつながり線の活性化が相対的にかじょうな身体だと思っている。
もし、わたしの受容体の特徴と似た人が、わたしの周りに多いならば、わたしの居る世界は、もっと違う現実だったはずだ。

例えば
・喫茶店の席の間隔はもっと広かっただろう。
・電車はあれほど混まないデザインの運用がされているだろう。
・学校の授業が固定的ではなかっただろう。
・就労は決まった時間で決まった仕事量で成果によって給与が決まるというデザインではなかったろう
・天候によって変動する個体の0ポイントを優先したデザインの、学校、会社、であったろう

個体の特徴が平均値なのであれば、社会のデザインは、それに沿ったものになっているはず。なぜなら、需要が多いからだ。
受容の多いものは資本主義社会においては優先される。

そうしてできあがっているこの現実、社会システムの中に、わたしのような受容体の特徴を持つ個体は、どのようであるか。
それを知ろうと、ずっと、している。
構造を、見たい。
そうでないなら、わたしはわたしのしんどさを、「わたしという個体の責任」として信じ込むことになるから。
それは、ずっとそうだった。

「働くが続かない」という長年の現実は、わたしにそう宣告してきた。
お前は使えない。
お前は弱い。
お前には継続する力がない。

ほんとうか?
わたし個人にこの責任はすべて負わせられるのか?
有機的自律運動という視点から見える構造があるんじゃないか?

という問いかけが生まれて、やっと、「働くが続かない」というテーマと向き合えるようになっている。


今回の最初に書いた

「不可視化」「透明化」「ないことになる」と、言い直してみたい。

は、

ここに、コストがかかってくる。
相対的に受容の平均的な個体は、受容の過剰な個体が過剰さに翻弄されていることを見過ごせる。感知できないから。
相対的受容の過剰な個体にとって、その場に平気にいられる個体を、不思議ではあっても、問い詰めることはない。
なぜなら、大多数の人が、相対的に平均値の受容体の特徴をもつ個体であるなら、そこに疑問は生まれない。
「なんとなく」そこにある運動で、意識されることはないだろう。
ことこ・ざわり

ということを言っている。


❇︎ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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