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集団の輪っかからはみ出る方法

季節がまた移り変わろうとしている。
細かく言えば日々、時間時間によって、変化は起こり続けている。

どのようなまとまりをみせているか。自分という個体の中で。
例えば「夏」が来るなあ、とか
もう春も過ぎたのにまだ寒い日が続くなあ、とか

そうまとまる個体は、実は集団の輪っかからどのような影響を受けているのか。

みたいなことを日々考えています。
こんにちは。
夏が近いのかどうかは知らないが被っている帽子が汗ばむ今朝です。

「集団の輪っかから外れる方法=自分の0ポイントに留まる方法」
と、仮定してみよう。

※「集団の輪っかから外れる必要ある?」という問いは後にして

「痛み」。今ココに留め置かれる感覚。
痛みに襲われている時、まさに「襲われている」と表現したい感じがある。この痛みがなければ本来遂行できるはずのアレコレが、「痛み」があることによって滞る。なにか不利益を被っているように感ぜられる。

集団の輪っかに無邪気に入っていられない。それどころじゃない。痛いから。

痛みは人と共有できない。個体の中にしかない。個体に備わる受容体によって感知されている現象。

だからこそ伝わらなくて悲しくなったりもする。
どうせ他の人にはわからない、と思う。

でもその際に、自分という個体と、話してみることはしているか。

「痛み」は、0ポイントに至ろうとすることを邪魔しているものに抗してはたらいているようにわたしには思える。

刺激の素と遭遇し、個体の中で粒となり、つながり線になって星座に成ることを指向している「有機的自律運動」。
例えばわたしは、有機的自律運動の一応の落ち着きと思われる「星座」のまとまりをみることが、割と少ない個体のように自覚している。

星座になれれば落ち着けるのに、いつまで経っても星座の象られは訪れない。
例えば化学繊維の服(アルバイトの時の制服とか)を身につけている時など、刺激の素と接することでわたしの中の受容体はずっと働きっぱなしになる。反応し続ける。落ち着けなくてウロウロしている感じ。つながり線はできるけど、落ち着ける形、星座が現れない。
綿や絹や麻など、天然素材であれば体温調整も呼吸もできて有機的自律運動は落ち着いてくる。
刺激の素とわたしの間に0ポイントが発生する。これが星座の落ち着きだとする。

「痛み」は、例えばわたしがバタバタして星座に落ち着けない状態に通ずるところがある。
自分という個体が応答できる範囲「0ポイント」に至れていない状態を知らせてくれているように思う。

「痛み」が消えることは0ポイントに居ることの証になる。
事情によって集団の輪っかに沿おおうとする指向が働いている、という時にも、自分という個体は0ポイントに向かうとするはたらき、有機的自律運動がはたらいている。
無視できているようで、実はそれ(有機的自律運動)から逃れることはできない。
無視できているつもりで実は、というとき、「痛み」は現れる。

「痛み」は、「0ポイントから外れていますよ」ということを表しているようにわたしには思える。

姿勢が悪いと思い込み、正そうと常に背中に力が入っていた末にヘルニアで寝たきりになったわたしの体験からこの感覚は来ている。
新しい職場に行くと、緊張している最初の頃に腰を痛めることや、しんどい勤務が重なってもゆっくり休めず気持ちも体も極まっているときに、背中の緊張からくる腰痛がくる。

「痛み」は、チャンスだ。
なんのチャンスか。
集団の輪っかから目が覚めるチャンスだ。

集団の輪っかから外れる必要ある?と、最初に書いた。
0ポイントで生きられている人にはわざわざ外れる必要がない。現行の社会システムで生きられている。十分ではないか。

集団の輪っかを指向して、自分の0ポイントを無視してきた人にこそ、生きていくために必要なことだ。
集団の輪っかに沿っていこうとしている人ほど、集団の輪っかから実は外れたところに自分の0ポイントがある可能性がある。
そういう人は、すごく、怖いはずだ。
集団の輪っかから外れて生きられる気がしていないはずだ。
だから集団の輪っかに沿おおうとして自分の0ポイントを無視することになる。
だって、自分の0ポイントを優先しようとすれば、集団の輪っかから外れるとどこかで知っているから。

実存に醒めて生きることは難しく、普段は、夢を生きているわけだ。

現行の社会システムが現実だ、という、「夢」をみていて、そこから逃れられないのだ。

これが、これまでのわたしだった。

社会システムという夢、働いていることで得られる自分像、それらは現代で生きるわたしたちが総出で作り上げている幻想で夢だ。

その夢から醒めて生きることは無意味で難しいこと、というわけだ。

醒めるということは、現行の社会システムで生きられないことを意味する。

怖い、という感覚がこれで理解できる。
わたしは怖かったのだ、醒めることが。
この社会システムから外れて生きていけなくなることを直感していたから。

無意識なまま自分の0ポイントで生きられている人もいる。
現行の社会システムに自分の0ポイントが収まり良い人。
大きく外れていない個体。

わたしは、外れているんだ、ということに目が覚めた。
認めざるを得ない。
したくない転職を30回もしてきたのだから、結果が出ている。
集団の輪っかに沿おおうとしてきて、自分の0ポイントを無視してきて、痛みが出た。
集団の輪っかと自分という個体の間のズレを抱え込み、個体で解決しようとしてきたとき、蓄積しているズレは痛みになって現れた。
もう、どのようにも、0ポイントは発生しません、と言われているかのよう。


では、わたしになにができるか。

わたしという個体に0ポイントが現れる時、その環境(人的環境も含め)と自分との間でも、同時に0ポイントが発生する。

例えば
「気温の暑い日×わたしという個体×麻の服×歩くという運動」
の時、わたしという個体が汗をかき、肌が呼吸でき、動くことで体温が変化し、気温が変動し、これら「変化」に個体も環境も対応範囲「0ポイント」が発生し続けているということ。

現行の社会システムにおいて理解されているwin-winの外側にも、たぶん、無数に0ポイントはあるということ。

だから、現行の社会システムの当たり前から、はみ出るとしても、自分という個体から得られる「痛み」「居心地悪さ」のようなことを引っ込めないで出していくことは、「新たな現実」の発見へとつながるはず。

ジタバタできることの大切さ。

ジタバタしながら自分という個体から来る信号を発信してみること。
拾われるかどうかは知らなくていい。
誰も知らないのだから。

現れは、自ずとやってくる。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな、主観の言葉です。

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