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【「個人の0ポイント」と「集団の輪っか」のズレがヒントになる】 0ポイントと出会う旅

今回も、「粒と星座」の言葉に至る、メモをアップします。

個人の中ではたらいている運動があって、集団になると「集団の輪っか」との関わりも発生して、「個人」と「集団の輪っか」という両方が動いているという前提。

ベクトルの違い

個人の中で有機的自律運動が絶えず起きている。
それは0ポイントに向かうベクトル。
個人の0ポイントの集まりである集団では、共有可能性のある集団全体の大きな輪っかのようなものが発生している。
共通のルールや規範や意識できていないレベルでも共有されている共通部分がある。それを「集団の輪っか」と呼んでみる。
集団の輪っかは、ベクトルが個人に向かってくると、個人を縛るものになり得る。
本来は0ポイントへ向かうベクトルだった個人の有機的自律運動は、集団の輪っかに沿っていこうとするベクトルに取って代わることがわたしには起きる。
その場合、持続可能性が途絶え、わたしは苦しくなり、そこに居られなくなる。


「ズレ」は大事な0ポイントに通ずる感覚

では、自分の0ポイントに至る有機的自律運動を取り戻せばいいのでは。

「ざわり」は、言葉など他者と共有できるに至っていない、有機的自律運動。という意味で使っているが、他者と共有できないけど自分の中では起きている。
これは誰の中でも起きていると思っているが、意識されることはあまりないかもしれない。なぜなら、会社などで働くときに、これらに注目しなくても済んでしまうことが多いからだ。
個人の中の有機的自律運動を意識しなくても、仕事や作業が進むような工夫が会社の中には作られている。
例えばルールとか、昼休憩の枠とか、出社時間とか退社時間とか、給与体系とか、福利厚生とか。
個人の中の有機的自律運動を尊重しなくても進むことができる。

それが自分にフィットする0ポイントの人はいる。
そういう人が多いから、できているともいえる。

でも、わたしの場合は、それだと苦しくて、がんばってもやがて持続不可能なときがやってくる。

だから、「集団の輪っか」を外してみて、そもそもの自分の0ポイントに向かうベクトルを取り戻す。
そういう実験が必要になった。

その為には、「集団の輪っか」と自分との「ズレ」は大事かもしれない。
ズレがなければいいいが、ズレを感じるなら、そこに自分独自の、0ポイントへ至るベクトルがあるはずだから。


※これはわたしの中の仮説でありエビデンスはわたしの経験・体感です。

※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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