魔法の白い粉
肌寒い、10月の事でした。
渋谷の、帰宅ラッシュでごった返す駅のホームで、私はふと気付いたんです。
「あれ?私、早歩きだな」って。
立ち止まり、駅の鏡に移った自分の姿を確認しました。
そこには、自分で思っていた以上にひどい猫背の、そして疲れた顔の自分がひとりぼっちで立っていました。
「…こんなハズじゃなかった。」
ふいに、そう思いました。自然と涙が出てきます。
私は、特別仕事が出来るわけでもありません。
何となく働いて、何となくご飯を食べて、何となく眠ると、何となく朝が来る。
そんな繰返しの中で、気がつくともう30歳。
足元を見ると、ボロボロに履きつぶされた自分のスニーカーが見えました。
買った時はあんなにカッコよく見えたのに、今や足の形にフィットして、コッペパンのごとく丸く、そして薄汚れています。
感傷に浸りながらその靴を見ていると、突然、地面に大きな穴が空きました。
大きくて、深い、底の見えない穴でした。
「あぁ、きっと頭がイカれてしまったんだ。私は疲れすぎてしまったのね。」
そう思いながら、足元の穴を見つめました。
すると、そこから私の方をじっと見ている人がいるではありませんか。
その人は、低く、落ち着いた男の声で、
「これ、あげる。」とか、
「ほらほら、簡単だよ。」等と言って、
ひらひらと、私の方に手を伸ばしてきたのです。
なんの感情もありませんでした。
無意識というやつです。
私は、その差し出された手を掴んでしまいました。
穴の中の人はニッ、と口だけで笑い、私の手を強く引っ張りました。
穴に引きずり込まれる途中、彼は私の耳元でこう言ったのです。
「幸せになれる、魔法の粉を、あげますからね。」
その日から、人生が変わりました。
私は仕事を辞め、家に引きこもりました。
部屋には、その白い粉の特殊な香りと、
ダンッ、ダンッ、という、何かがぶつかる音だけが響きます。
私は、それが幸せでした。
今までのOL生活では体験した事のない幸福感がそこにはありました。
毎日毎日その白い粉を使い、毎日毎日口へと運びます。
そう、私の人生を変えたのは、たった一袋の白い粉。
粉の名前は、ドライイースト。
俗にいう、イースト菌のことです。
お母さん、お父さん。
前の仕事よりお給料はちょっと低くなったけど、私はとっても幸せです。
あの日から、私は毎日パンを焼いています。
自宅で、パン屋を始めたのです。
私は今、とっても幸せです。
おしまい。
犬飼いたい