見出し画像

無いは存在しない不思議

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか

あると言えば在る、ないと言えば無い、かのように思われる。

しかし、無いは、存在しない。「無い」の強制力(文言)に従って、無いのである。しかし、「無い存在」の否定をすることは出来ない。

なぜなら、この世のどこにも「存在し無い」ものを表すことは不可能だからである。

その証拠に、人間の理性と論理では、「無いは、有る」を認めることはできても、「有るは、無い」は、認識不可能である。

そして、今、「人間の理性と論理では」とわざわざ書いたのは、「神には可能なのか、と言う問いを消し去り、神でも不可能なのを示す為」である。

それは、この世には、神の認めたものしか存在し得ないことからも分かる。存在し得ないものを見ることは、矛盾する。

つまり、無を見つける神の存在は、どうしても残る。

従って、神の存在する限り、無は訪れない。

即ち、人の身に、神は、論理的に消去不可能なのである。

よって、「在るは、無い」と言う文言は、成り立たない。

「神は、無い」は、不可能である。又、仮に、神は、「無」からの出現を可能としても、やはり、無から現れる以上、今度は、現象として、神の存在を消し去ることは、不可能である。

「無いは、神」は、可能性として残る。

しかし、それでは、「神(在る)は、無い」と言う文言は、「神は、神」に置き換わり、「無い」と言う言葉の存在は、神に上書きされ、消え去る。しかも、「神は、無い」の論理は、無視され、「神は、神」で在ることになっている。

その結果、「神(在る)は、無い」は、「神」によって「無い」と言う言葉を置き換えられる前まで時間をさかのぼれば、成り立つこととなるものの、代わりに、それ以後、「無い」は、この世から消えさる。

消え去ったにも関わらず、その上(時間を遡ること)で、「神(在る)は、無い」は、成り立つことになるのは、厳しいのではないか。

それを認めたとしても、そこからの復帰をどうするのか。神も無くなってしまえば、在るものは、全くなくなるのだから。

結論

「無い」を存在させるためには、「神」と言う絶対のものに頼らなくてはならない(一体化)。しかし、絶対のものである「神」の存在を消し去ることは、出来ないので、「無い」は、存在不可能である。

つまり、最高の存在を神として、在るの最高位と、無いの最高位を競わせると、必ず、「在る」は、残る。

以上の事から、世界は、「在る」に基づいている。

私の言いたいこと

名前を付けることのできる物の存在を否定することは出来ない。

即ち、「無いは、在る」か、「無い。しかし、在る」ことになる。

以上の事から、有と無は、連携していなければならない。この連携と言う言葉に反証の余地を認める。つまり、連続、若しくは、繋がりを示唆したい。

従って、有と無は、常に同時に存在するものである。

さもなくば、無いという存在は、ただ在ることになる。

だから、「ある」と話そう。


試し

前提:存在の否定は、不可能である。

例:「神は、いる。」

否定:不可能である。

補足:神の存在を証明できないのと同じように、不存在も証明することは出来ない。

理由:「神は存在する」と言う主張と、「神は存在しない」と言う主張は、共に何も証明しない。

理由2:形而上学的主張は、形而上学的主張へと逆戻りする(カント)。

結論:存在は、常に可能である。

結論2:現象の否定はできる。

理由:照らし合わせることを可能とするから。観照できるから。

補足:つまり、存在は、現象と結びついた時に限り否定可能である。


「可能である、不可能である」のように、「ない」ではなく、「ある」で書くと、少し読みやすくなった気がする。


最後に

「無い」は、「在る」の状態の一種であり、「在る」は、正当性を持つ。

存在の消去は、神の消去と同様の法則(力?)を必要とする。

神の自殺ともいうべき法則を見つけない限り、無いを証明できない。

在るは、それ単体で行動するのか、根底に意識を持つか。