3000チャレンジを初めて早速分かったこと

■ 前書き&結論

元々大した考えも持たずに始めたものだからか、当初から矛盾した思いを抱えていた。価格が高すぎるという思いと、安すぎるという思いだ。そのような思いを抱く理由の説明を付ける為、3000チャレンジを見直す必要があるのを感じた

読むのがめんどくさい人の為の
早すぎる結論:
 私たちが知識を得ることは、現時点では、ほぼ占いと同義である。知識を得たからと言って未来が分かるわけでも、この世の闇が晴れるわけでもなく、はっきりすることの方が少ない。「なぜ私たちは学ぶのか?」という問いに対する私の答えは、「私たちは、自分の住む世界をはっきりさせる為に学ぶのであって、精神的な満足を得るために占いをするのではない」です。

重要なのは、今なんだ。今を大切にしない奴に未来はない。
今の呼吸を忘れて未来はない。今を大切にね。 藁ゐ ごとう

■ 1.知識を売り物にするということ

 裁判に勝てるのなら3億は、決して高くはない。
 しかし、勝てないのであれば3000万は高すぎる

 売り物を売り物たらしめるのは、意思決定(購買前の状況)か、最終的な満足(購買後の状態)だろう。購買後の状態を知っていれば、購買前の制限は必要ない場合もある。

 意思決定は、1)合理性、2)選択の安定、3)状況が要求する一定の時間内に実現されること(即ち、制限と言う枠によってもたらされる行動)によって発揮される。

 この場合の売り物は、知識なので、知識の代替案となる。
即ち、誰かの欲求の解決をまかされることになる。

 しかし、それを一方的な文章で、となると明らかに厳しい。

 購入する者がいたとしたら、それは、伸るか反るかのような心理状態で購入することになるはずだ。

だが、知識を売り物にするということは、そういうことで、売り物としての知識は、皆そういうものではないだろうか。

 昔、ある本屋が紹介されているブログを読んだことがあるのだが、そこには、店主が本について、「分からないから買う。それが基本ではないでしょうか」と語り、そういえばそうだと感心したそうだ。今それを思い出した。

 知識も、陳列されて棚に並んでいるものなのだ。

■ 2.精神的な満足か納得のいく答え。読者と作者の違い。さらに値段。

 疑問に対する回答が得られるのなら、3000円は高くない。
 精神的な満足の得られる回答でも、3000円は高くない。

 しかし、それ以外では、3000円は高すぎる。これが読者の思考だろう。

それでは、大学の教授はどうだろう。提供する側のいい例だ。

 答えを提供するのは簡単かもしれない。しかし、その答えを理解させるというのは、とても難しい。誰もがこれで苦しむ。なぜなら、人類は、未だすべての答えを手に入れていないからだ。即ち、人類は、「理解する」方法についても明確な手段を持ち合わせていない。
 人類は、「問いと答え」を詳しく知らないが為に、様々な事象の理解に苦しむことになっている。

今の私と同じだ。何を為せばいいのかは分かっているが、私にその役目が与えられている目的が分からない。その目的は自己から離れているのだから分からない。いわば、人を正せと言われているようなものだ。そもそも正しくないから世界がこうなってるわけなのにも関わらず、正しくない世界で、正しさを説くことがいかに難しいか。正しくない世界で、正しさを説くことの難しさよ。

 その作業を、いや、大業を3000円でだよ(自分で設定したのだが)。

3000円で誰もが納得の良く答えか、精神的な満足の得られる回答を用意しろだって?!

しかも、口先だけで。
 そういった真理の類を提供するのに、3000円ではどう考えても安すぎる。安いコンサル業でしかない。大学って安いコンサル受けてるだけだったんだ。いや、安くはないか。言うとしたら、安っぽいコンサル。

それを個人の手で個人相手にまるでブラックジャックかレクター博士の様に行うというのは狂っていると言わざるを得ない。

 ここでいったん遡り、「精神的な満足と納得のいく答えが同じものか」について考えることにする。いうまでもなく、私の行為は、行き詰っているからだ。

共通する事柄は、その時点において、正しさを求めていない点だ。
なので、仮に、この場においては、勝利条件と呼ぶことにする。

 買い手と生産者の勝利条件は違う。

■3.占いだということ

 勝利条件が一致しないとどうなるか。

 皆が満足の良く答え(知識)を提供しなければならないと考えたら、3000円は、余りにも安すぎる(提供者にとって労力に見合わず、しかも、できるか疑わしい)。

 答えは、「ただの占いになる」だ。
 知識を3000円で売るなんてのは、占いだよ。占いをすることだ。

勝利条件が一致しないことで、知識を売ることの性質があらわになる。
 もしかしたら、もの全般かも知れない。一致しないまま売られるものは、占いになる?

 我々は、ここで一つの結論を得る。売り物(知識)には、2種類あるのだ。つまり、曖昧か、そうじゃないか。

 消費者と生産者(?)が落ち着く唯一の妥協点。それは、曖昧なもの。
正確ではないかもしれないが、おそらくこれが一般化された言葉が、「”値段相応の”」だろう。

ちょっとここで、個人的に気になることがある。そう考えると、「”占い”を教わる授業」ってどうなるんだろう。占いの占いになる?意味不明だが、核をついてそうではある。しかし、占いの占い、この言葉には、何か可能性を感じる。ともかく、考察すると、占いは、最古のコンサル業の一種だと真面目に考えさせられる。「知識」でお客様を満足させる(その満足の内容について考える必要有)仕事であり、「知識」そのものを売り物にしている職業の一つであることを認めなくてはならない。占い師の1回3000円なんてのは、考えてみれば妥当に思えるね。労力的には。無駄な労力ってやつかもしれないが。

■4.占いの価格が生み出すモノ。それは、欲望。

3000チャレンジは、読者にとっても私にとっても、占いの様な曖昧なものだということが露わになった。それが露わになった理由は、3000円という価格だ。この値段設定が単にインターネット上で面白い話を期待するという類のものではなくした。読者は、読者の欲望に従って、私は、私の欲望に従って行動する。即ち、欲望による意思決定が行われる。

意識的な目標に行動を駆りたてはするが、意志的欲求のように義務感を伴わず、比較的がむしゃらで無反省なものであることが多い。

その結果が、これ(占い)だ。

何故争いが起きるんだろう。
何故、人間同士で終わりのない戦いを続けているのだろうか。
私は、その答えを知っている。
人の言葉は、万能ではない。
だから、人は、皆、神の言葉を求める。
しかし、人は、神の言葉を理解できない。
ゆえに争いが起きる。
哀れな生き物よ。

5.いと知識の差

これが最終的な問題となる。

 真面目に言って、知識を得ることと、占いの違いってなんなんだろうか。知識を得ることで、私たちは何をすることができるようになるのだろうか。はっきりしたモノなんて、世の中にほとんどないのだ。

今日、本を読んだ私は、精神的な満足を得るという点と、未来が何も分からないという点において、今日の運勢を知ったあなたと何の違いもない。

得られる(と思われる)もの:

占い
(1)精神的な満足 (2)はっきりしない未来 (3)まちまちな値段設定
(4)理解できない知識 (5)さいころを振って出た数字で判断
(6)占いとは別の部分で科学的な知識を披露してくる可能性
(7)本か、人から学ぶ。又は、自分で考える

手に取った本
(1)、(2),(3)に違いはなかろう。
(4)理解できないこともある。理解できなければ、占いと変わらないかも
(5)本に書かれてることをもとに判断
(6)仮説、理論
(7)占いと大体同じ

結論

(1)
 考え直して気が付いたのは、そもそも、普段、私たちが得られる”知識”というもの自体、そのほとんどが占いの域をでないという事実だ。
=私たちが触れられる知識の大半は、仮説であり、占いの域を出ない

(2)
私が触れた、そして、貴方が触れたその本は、一体、貴方に何を教えてくれたのか。貴方が今まで手に取ってきた本の多くは、おそらく、貴方に精神的な満足と、生き方の方向性を定める以外、何の役にも立っていない。
=知識と占いは、精神的な満足と、生き方の方向性を定める

(3)
 本を読まない人間を袖にしてきたが、そもそも、本を読むことで得られるものは、精神的な満足意外ないのではないか?
=かわいらしい罪の告白:本を読まない人間をおかしな奴だと思った

(4)
本を読むことは、自身をよりよくするものだと思って生きてきたが、自身をよりよくするということは、即ち、自身の未来をよりよくすることを期待するということだ。
=しかし、未来をより良くする保証等なく、未来が判明することもない。

(5)結論の結論
 無知の知というものを今更理解しかけているかもしれない。はっきりしているモノが世の中にはほとんどない。
=しかし、私たちは、自分の住む世界をはっきりさせる為に学ぶのであって、精神的な満足を得るために占いをするのではない。

これだよ、俺はこれが言いたかった。

重要なのは、今なんだ。未来じゃないんだ。今を大切にしない奴に未来はない。今の呼吸を忘れて未来はない。

■鶏肋鶏肋

知識又は占いを必要とする人物の仮説
次に考えるのは、知識と占いを求める人間の人物像だ。

これを知ることも、知識と占いの差を知ることにつながるだろう。
一体、どんな人物だろうか。

知識を求めているときの状態の例:
この薬が効くか効かないかよく分からないがとにかく買う。

この状態を、仮に鶏肋と呼んでみる。
ちなみに鶏肋とは、「たいして役に立たないが、捨てるには惜しいもの」である。

鶏肋的な人物をターゲットにした商売とは
3000チャレンジは、鶏肋的な商売(こんな言葉はない)である。
商売は、人がいて初めて成り立つ。
(3000チャレンジの様な)よく分からない品物を買うのは、鶏肋的な人物である。
鶏肋的な商売とは、鶏肋的な人をターゲットにした商売である。

大学生とかいうカモのメモ
言い方はともかく、これは理屈的に正しい気がする。
ってことは、俺もカモにされてるじゃねーか!
一般的な大学生なんて、鶏肋的な人物その者じゃねーか!

ム求、脱却する方法
そっから脱却なんてできるのかね?2つの意味で真面目に考慮する価値がある。「鶏肋的な人物」と、私たちはそこから脱却できるかについて。

脱却の条件とは?
見栄で鶏肋をとった曹操はボコられた。そのことを考えると、これを長く続けるのは何の益もない。そういうわけで、3000チャレンジは、一つ目の記事を書く前にあえなく終了です。つまり、諦める事。それも一つの脱却の条件だろう。脱却というか、脱落っぽいが。それとは話が違うけど、三国志の話とかにも良く出てくるよね。くだらん派閥争いにつかれたとか。竹林の七賢とかは有名でしょう。

いや、まて、これは、
ヒントになる。

EverGiveUp!!
知恵を諦めることが、鶏肋的な人物に繋がるのでは?
考えずに理解したい、みたいな感じか。仕方のない側面もある気がするな。

まぁ、後でゆっくり考えましょう。

■今日、ここに来たあなたの運勢は、「大吉」です!

この記事の中で、私は、自身の記事について、
「読者にとっても、私にとっても占いのようなものになる」と話した。
これは紛れもない事実だ。この記事は、占いのような性質を帯びている。

はっきりした知識を含んでいないのもそうだが、何より、読者とのやり取りが占いであることを証明してしまう。即ち、読者は、己の経験と運を頼りにしなければ、目的の記事にたどり着くことは出来ないが、目的の曖昧な鶏肋的なネットサーフィンは、神頼み的な所がある。これって何て言えばいいんだ?どの港へ向かうのかを知らぬ者にとっては、いかなる風も順風たり得ない。そんなところがある。事前に用意しておくことしかできない私には、どうすることもできない。

そう、私にできることは、事前に用意しておくことだけ。

そこで私は考えた。ならば、迎え撃てばいい!!

読者は、自分で探さなければならないという労力を必要とする。
やっと辿りついた先で、高額なおみくじを引くだろうか?引くわけがない。

ならば、全文を先に読ませればよい。

「今日、ここに来たあなたの運勢は、”大吉”です!」といったように。
即ち、貴方のたどり着いた場所には、おみくじを引かずとも、おみくじの助言(?)がでかでかと張り出されているのだ!

運命を感じずにはいられない。

それで、読者が実際に未来を予測できるような当たりを引けたのなら、どれか一つは買われる可能性があるだろう。それは、もちろん1つの記事のことではない。

読者である貴方の欠乏あるいは不足を満たすことができれば構わないわけだから、おみくじの結果が、何十と張り出されていたとしても問題はないはずだ。

ファイナルフラッシュ

 私たちが知識を得ることは、現時点では、ほぼ占いと同義である。知識を得たからと言って未来が分かるわけでも、この世の闇が晴れるわけでもなく、はっきりすることの方が少ない。では何故、私たちは学ぶのか?

人は考える。より深く考えるために知識を得る。占いを行う者も、こういった行動をとる。その行動に差はない。

この世界に自分の未来がはっきりするような知識はない。そういった意味では、「知識」も「占いの知識」と同等のモノだといえる。違うのは、その知識がもたらす性質ではないか。

占いで過去を知ることは出来ないが、人から過去を知ることは出来る。

過去に行われたその場の誰かの為の占いの結果は、知恵で厳選したところで他人の役に立つことはあるまい。
それに比べ知恵により厳選された本からは、読むことで、占われずとも常に過去の人物から助言を得ることができる。
仮にこれを占いと同じとするならば、これは、少なくとも、だれかしらに(占いの)結果を告げているのと同じことであり、予言であると言える。そして、それを集める行為は、現在の融通の利かない行為を一つ得る(その時、その場で、一度占われる)よりかはマシだと言える。

結局、占いを頼り、それすらも人の力とするのであれば、知恵を使い本を読み、大量に予言をうけた方がいいということになるであろう。

つまり、人の行いを通じて知ることができる過去の知識は、予言ともとれるのだから、その数は、多ければ多い程良い。

その理由は、「その場の誰かのためのはっきりしない知識=占い(役に立たない)」を例にとれば分かるように、「不確かな知識として表現される行いである占い」を通して検討される人の行いは、一過性のように見えて、一過性のものではなく、それを知ることで未来を迎え撃つことのできる力となるからだ。

従って、「知恵により厳選された本は、力」であると言える。

これで安心して本を立ち読みすることができます。

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