不実転生

改めて考えてみた時、「世界に在るか」と言う最も大切な問いを思い出した。

「超越した不実」は、存在するのか

人の不実は、肉体に根付く。同様に人の意識も肉体に内在する。

肉体を超越した「不実」が世界に存在するならば、肉体以前の意識を創世に委ねることになる。

似た問題から超越の構成軸をさぐる
「何故に人は狂うのか」

過去、似たような問題に「人が狂う理由」を考えたことがある。

「人が狂うのは、この世界には、人を狂わせる物があるから」というのは、全部が誤りではないだろう。

この文の「人」を「人の感覚や意識」に変え、「人の感覚や意識を狂わせる物=肉体(世界ではなく自身の問題)」と解釈する。そうすることで、人間の外にあるのではなく(外にもあるかもしれないが)、まず肉体として内在している、という問題が浮かび上がってくる。

つまり、「なんせ、世界には人を狂わせる物が多いのですから、人が狂うのも道理でしょう」と言う台詞を「人が狂うのは、そもそも正誤を判定する感覚器官を人が有しているから」という文章に変える。

正確さと詳細さに欠けるものの、前文も感覚的には間違いではないだろう。感覚への刺激を攻撃と捉えれば、攻撃して他人の感覚を刺激によって狂わせる、又は、攻撃により感覚を奪うことで狂わせることは可能だろう。

超越的な意識の存在

超越的な意識を説明付ける為には、「創世」を用いなければならない。

創生は、「無、有、意識」の最低3つを「根源」とする。この3つが宇宙には存在しなければならない。

創世の「無」と「有」について

I「無」から始まったとした場合

完成された完璧な世界。無が一つだけある。無があるということは、そこに永遠があるということだ。つまり、無の存在を認めれば、無限もまた存在する。しかし、それ単体では、数えられるものなのかどうかすらわからない。
ある日、「有」が出現し、初めて世界は、「1」と数えられた。

「有が現れることで、初めて無の存在も明らかになる」。このことから、有は、存在を証明する性質を持っていると考えられる。すなわち、有とは、存在の証明である。

存在を知られることのない「0」の世界に、ある日突然、在る物「1」が現れたことで、必然、世界は、「0」と「1」の二つに別れることになる。

「有」が現れたことで、数の概念が生まれたのである。
しかし、数だけ在っても仕方ない。

それを数えるなり、分けるなりしなければ、それらは、「0」でも「1」でもない「無」なのだ。

即ち、世界が別れると、必然的に、「世界を数える者」として、「意識」も生まれなければならない。

つまり、「有(存在の証明)」の認定者が「意識」である。


II「有」から始まったとした場合

無とほぼ同じ。始まりだけが違う。
始まりは、「無い」。無は、「有る」に内包される。

世界が最初から在るということは、「創世が無い」ということになる。
従って、時間の始まりも無い。

有から始まった場合、「創世」にかかわる物に関しては、「無い」と言える。


III根源の不死性

宇宙の始まりを議論する中で根幹の対象となる「無」、「有」、「意識」には、死がない。例えば、この宇宙の崩壊ですべてがなくなるとしても、「無」が残ってしまう。

現象として確認できないので必然的に不死となる。

「有」でみても、滅ぼすことは不可能だ。仮に「有」を「生命」として考えてみよう。どうやったら「生命」が滅ぶ?
ビッグバンで消滅させられない「生命」をどうやって処分するというのか。

意外かもしれないが、「有」を消し去ることも難しい。なぜなら、そんな現象は、確認できないからだ。対消滅が(できればだが)「有」の消滅になるかどうか。

そもそも消えるというのは、必要に応じて行われるものだ。逆説的に考えれば、「消える必要のないものは、消えない」。不変があるかどうかは分からないが、阻害による変化がないとは考えづらい。阻害されないものなどあるだろうか。自由勝手気ままに独立した存在として君臨することはとうてい不可能なように思える。そして、そんな帝王がいたとして、我々に把握できるのだろうか?また、この宇宙から独立したような存在がこの宇宙に必要だとは思えない。

この世に完璧な物が存在しないとしたら、
「存在者としての無」は、”完璧な物"を指す。

世界が単に始まりも終わりもない「有」であるとするならば、「無」は、この世に存在しないことになる。確かに事実上、「無」は、見られない。これを「存在者としての無」と呼ぶ。「存在者としての無」の代表的な例が、「完璧な円」や、「三角形の内角の和」等である。この世のどこを探しても完璧な円など存在せず、三角形の内角の和は、この世の全ての三角形の内角の和を調べたわけでもないのに180度として認められる。しかし、この世のどこにも完璧な三角形というものは見られず、わずかにずれが存在するはずである。つまり、理論的に「存在者としての無」を見ることは適わないだろう。しかし、それは、「存在者としての無(完璧な物体)」を私たちの目で見ることはできないという話であって、「観念的な無」の存在を否定するわけではない。つまり、完璧な物体を見ることは「無い」という所の「無」を我々は理解するのである。果たして、地上の完璧性は否定されるに至る。
Q:完璧性とは、永劫回帰の否定?食べたらなくなるといった永遠性の否定?分からん。よく分からん。

「無、有、意識」の最低3つである理由

創世の2パターン。

「無」

「無」から始まっているとすると、「有」に切り替わった理由と方法が問われる。「無い」状態から始まって「有」になるとは、不可思議極まりないが、我々の持つ感覚では感じることのできないものと、「完璧性の否定」から、(仮に)「我々の想像しうる完璧な無」は存在しないとして納得する。「完璧な無」は、否定されるのだから、少しばかりは「有」があったのだろう。仮に「99%の無」と「1%の有」としよう。それは、「静止」しているかのように見えて、ほんの僅かずつ動いていたに違いない。そしてエネルギーが溜まり、やがて「ドカーン」となった。ビッグバンである。

「有」- 無の内包

「有」だとすると、その中に「無」を内包することになる。つまり、「始まりが無い」ことになる。そして、”始まりが無いのにも関わらず”、始まっているという矛盾が起きる。だから、おかしな話だが、「有」であるという可能性は低いと思っている。感覚的にだが。

意識1- そもそも何を「有る」だの「無い」だの言っているのか。

例えば私が「野球のボール」を投げたとする。

それを知らない「意識」は、「野球のボール」が何も無い所からいきなり表れて、そして今、地面に転がっていると思うだろう。この問題に対する今の私と同じだ。

だが、もしわたしであれば、ボールが地面に横たわっている以上、「始まりは有る」と考えるはずだ。確かに、「始まりは有る」。そして、「始まりは有る」と認めた時、「物質もある」と認められるのだ。

意識2- 「始まりの有無」と、「物質の有無」の混同

以上の事から、私が今考えている問題は、「物質の始まり」のことであろう。

おそらく、運動や加速を前提にすれば、「物質は元から有る」ことになる。即ち、上述した「物質の始まりはない。しかし、元から有る」となる。

意識3- 意識と物質は、どちらが先か。「意識の始まりvs物質の始まり」

これが意識の本題である。「物質の始まり」は、いくら考えても分からない。私では。

そこで助けとなるのが、「意識」と「意識の始まり」である。

私の考えでは、この世界の意識(「創世の意識」)は、物質よりも早く生まれている。よくよく考えたら、これはこれでおかしいんだな。「始まり」に順番(創生の順序)なんてあるのかな?まぁ、ひとまずこれはおいておこう。

「意識」が存在すると言える明確な理由

これは、世界の始まりが「無」だろうと「有」だろうと変わらない。「意識」は、その必要性から必ず存在する。

無為- 無意味性
例えば、宇宙が「無」だと仮定する。それが存在しているとして、それに何の価値があるのだろうか。原理的に誰に見らることも、発見されることもない場合、存在者としては不十分である。



ただし、これは、考えように左右されている気がしていている。いいようによっては、そう言える程度のものなのかも知れない。ようは、誤りかも。

なぜなら、意識は、0秒で生まれていることになるからだ。意識というか、これは、「概念」かな。もしかしたら。いや、もしかしなくてもそうか?意識とは別かも。


つまり、「無」と「有」は、世界の状態であると 

『有の始発点としての無』、『有の終着点としての無』

無の特徴は、「静止」していることにある。動くものが何も存在しないが故の静止である。従って、無は、運動の停止である。

これらをまとめると、まず最初に、理由は分からないが、世界は、無であった?


偽る者と偽る対象、偽られる者

誰かの目的の為に私たちが生まれ行動させられているとしたら、

「人にとっての狂う」とは、上下関係、主従関係を理解できないことだ。

必然的(?)又は、超越的価値として意識は、世界に存在する。

偽る対象は、「意識」なのか、それとも、「肉を通した意識」なのか

偽る対象と、偽る者が

偽る者が生命で、偽られる対象が肉。

世界が狂っていることはあり得ない。又、世界が不実であることもあり得ない。

両方とも、人だけのものである

観念上に「狂う」と「不実」は、存在しない。どちらも肉体を得た場合のみ「在る」

それは、観念上のものだからである。

この二つの概念は、

脳の重要な部分が傷つき、狂う。なにかしらかが傷つき、不実になる。

例えば、三角形がある。三角形の内角の和が180度なのは、この世の全ての三角形を図ったわけでもない。あ


ちょっといまいちだが、元もと、意識というものは、複数あるらしい。


私の大前提として、

無、有、意識がこの宇宙には存在している。


途中だけど公開。