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プラティノス(wikipedia)

プラティノス

あらすじ

気づいてしまった。wikipediaを自由に解説するサイトがまだないことに。なぜなら、通常であればその行いは、wikipedia内で完結するものだからだ。従って、その行為は、wikipediaと言う枠を越え出ることを不可能とする。
 しかし、wikipediaの外では、誰も使えず、全く通用しないとなると、wikipediaの存在を証明する方法が消え去る。以上の事から、自然と、外での利用は行われるのである。

ここまで考えて、冷静になった。

『wikipediaを自由に解説する』のは、おかしい。

元々、どこかの教授だか、なんだかの人だかが、「その物事について自由に語ったもの」を引用して『wikipedia』となってるわけだから。

「wikipedia」の記事の解説を行えば、おそらく、どこかの誰かの解説、又は、主張に逆戻りするだけなのではないか。

それでは、wikipediaとは何なのさ。

本題

美学の項目に着目した。

美学
彼によれば、ある物体は、ある時は美しく、ある時は美しくないのだから、物体であることと美しくあることとは別のことである。このような美の原因としては均斉 symmetria が挙げられることがあるが、しかしこれが美の原理であるならば、美は合成体にのみ存し、単純な美は存在しないが、光線、あるいは単音のように単純で美しい物があり、また「節制は愚行である」という命題と「正義は勝者である」という命題とは均斉はとれていながらこの倫理観は美しくない。したがって均斉は美の原理ではない。美が感知されるのは何か精神を引き付けるものが存するからで、すなわち精神と同質のロゴスが存しなければ物は美しくない。したがって美の根源はロゴスの明るさの中心として光に譬喩される神であり、超越美 to hyperkalon である一者としての神を頂点として、以下、ヌース、諸徳のイデア、諸存在者の形相、質料、という美の序列が成立する。この構想はプラトン的であり、その証明法はプラトンのようにミュトスによらず美的経験の分析による。この考えによれば芸術美を自然美と原理的に区別し得ないが、芸術は自然的事物を摸倣してはならず、自然美を成立させる原理を摸倣しなければならない。すなわち芸術家にとっては精神の直観力によってロゴスとしてのイデアの全体像を把握するのが先決問題である。プロティノスの宗教的美観は「汝自らの魂の内を見よ。自らが美しくなければ、自らの行いを清め、自己のうちに美が見えるまで努力せよ。神すなわち美を見たいと欲するものは自らを神に似た美しいものにしなければならない」という言葉に表されている。

考察

何となく好きな言葉だ。
「ある物体は、ある時は美しく、ある時は美しくない」

前提として、美しいと感じる運動機能の存在を認めなくてはならない。

 なんであれ、運動機能は、その機能事態の労働に関して複雑だとしても、それらがもたらす仕事は、目に見えて単純・又は、単一なはずだ。なぜなら、機能性と言うのは、ろ過機の様に余分なモノを取り除き、純粋さを求めるだろうからだその取り除かれた、余分なモノの痕跡を辿ると複雑になっていくことからも、それが分かるはずだ。

つまり、森の中に入って、動物の死体と言う結果を見つけたとして、その動物の足跡を辿り、なぜ死んだかを突き詰めようとするのであれば、困難を極めるからだ。その理由は、その過程の加速を感じること、感じ取ることが難しいからだ。

従って、人は、感覚器官を通して抽出された均斉の取れたものを生まれたてのヒヨコが親を見るかの如く好み、それ以外の複雑なもの(現在よりも過去について)は、回避する傾向にある。

『見惚れる』というのが、その代表例ではないか。
現在を注視し続けることこそ、(?)

人の思考の行先として、現在から未来への加速と、現在から過去への加速があるとして、現在から未来へは、目による視覚か、己の感覚に頼ることか、(?)

現在から未来への思考は、ろ過された水のごとく単純になる。

過去の感覚を辿ることは、ろ過された水である現在を見続ける事よりも、複雑なのだ。


ならば、「超越美」なるものは消え去り、あるのは、複雑な運動を避ける「回避美」である。

回避美であれば、下記の説明も付く。

「節制は愚行である」という命題と「正義は勝者である」という命題とは均斉はとれていながらこの倫理観は美しくない。

文章上では、単純に見えながら、その運動は、かなり複雑である。

実際、「節制は愚行」、「正義は勝者」を運動によって叶えるのは、おそらく至難の業だ。

反対語を用いると、「放縦、又は、享楽は、快挙である」、「不義は敗者」となる。*1

「放縦は、快挙である」又は、「享楽は、快挙である」を達成することは不可能だ。

芸術は自然的事物を摸倣してはならず、自然美を成立させる原理を摸倣しなければならない。すなわち芸術家にとっては精神の直観力によってロゴスとしてのイデアの全体像を把握するのが先決問題である。

終わり

他にも語ることのできる部分は多いだろうが、今は、いったん頭を冷やしたい。回避美とか今見ると何を言っているのか全く分からん。


引用 

*1 反対語大辞典