正論

正論-wiki

正論(せいろん)は、道理を説く論について正しいものであると評価する呼び方である。事実に関する議論や認識論について用いられることはあまりなく、ほとんどの場合が「**であるべきだ」という当為についての論である。そのため、論の対象は道徳、倫理や規範、政策など、公共的な要素をもつものが多い。

こうするのが正しい、と主張するのが当為によるところの正論。

こう見るのが正しい、と主張するのが事実に関する議論や認識論的な正論?

こうするのが正しい、という主張に対しては、「それは、当為としての正論であって、事実に関する議論や認識論的な正論ではない」というのが正論になるのかな。

つまり、「***すべきというのは、単なる意見であって、事実に関する正論ではなく、事実に関する正しい物の見方を主張しているわけではないので黙っていていただけますか?」というのが本来の正論の使い方かな。

「***であるべき」ってそう考えるとかなりひどい言葉なんだな。自分で言っておきながら、さらに、自分の意見が正しいと主張するんでしょ。

ようは、当為についての正論の基本は、自画自賛でしょ。

その性質から察するに、自画自賛に当たらない当為についての論は、正論になっているかもしれないな。

でも、自画自賛に当たらない当為についての論なんてあるのかね?

仮に、私が、「太陽は、休むことなく恥ずかしがるべきだ」とした場合、そもそも、太陽が恥ずかしがるなんてことは確認されてないので、まず事実に反する。おそらく、認識論的にもおかしいだろう。となると、「***であるべき」という当為だけが残ることになる。さらに、この例は、意見ですらない可能性すら示唆している。つまり、当為についての論の中には、意見ですらないものが混ざっていることになる。

以上の事から、文章の大半を「***であるべき」という当為についての論を構築することに注力しているものは、論どころか意見ですらない可能性が高い。

というか、正論を言うと、

当為(コトバンク)

「あるべきこと」「まさに為(な)すべきこと」をいい、倫理的な概念とされる。その究極的なものは人間の到達すべき目標であり、したがって哲学者の最高の探究課題であり続けた。カントは無条件的な当為を定言的命令という形でとらえ、すべての道徳的価値はこれにのみ由来すると考えた。条件付きの当為はにせの当為であって、実は「そうあらざるをえぬ」自然的世界に属する、というのである。カントは当為を現象界とは別の叡智(えいち)界に属さしめ、自由な実践的世界を樹立するが、のち新カント学派は、当為を理論的認識や美の世界にまで広げて、単なる倫理的概念からより包括的な概念へと構成し直した。反対にまた現代倫理学のなかには、当為を、是認の単なる感情表出にすぎないとして、その普遍性を拒否する立場も生じてきており、この問題は、いっそう複雑な展開をみせ始めている。[武村泰男]

人類でまだ一度も正確に語られたことのない言葉なんですけど。

いや、今日初めて認識したけどね。

当為って重い言葉なんだな。

当為の意味も知らずに当為について語るなんて恥ずかしいことをした。

私を例にとると、当為によるところの正論を語る人は、恥ずかしい人に当たるな。

恥ずかしい人か。

恥ずかしい人だったのか。


というか、私の、「太陽は、休むことなく恥ずかしがるべきだ」って、ひょっとして、世の中にあふれる正論の中では、かなり良い方なんじゃないか?

だって、太陽は、恥知らずじゃないか!