感情の乱れが怒りで表れる人と、不安や悲しみで表れる人がいるだけ
怒らないわけではもちろんない。感情は乱れる。腹を立てもする。ただ、感情が乱れたとき、不安や悲しみとして出やすいほうである。相手に直接怒って(罵詈雑言を言うことではなく)伝えるのは、まだ苦手。
へこむ人に対して「流すことを身に着けなさい」という考え方がある。この、まとめると「強くなりなさい」という考え方は、部分的には合理的アドバイスかもしれない。
でも、流したり反撃したりできるようになる努力をどれくらいするかどうかは本人の自由でいいと思う。選択肢は、それだけじゃないから。
そもそも、人はそんなに何でも流せるものだろうか。自分にも流せないものがありながら、他人には流せと言うのはどうなのだろう。と言いつつ私も、ふと気づくと、なんでそんなことをいつまでも気にするのかな、と思う瞬間がある。ただ、その人にとってはやっぱりつらいことなのだろうなと思ったりもする。
傷ついている人に流しなさいと言う人は、たしかに傷に強い、受け流す能力の高い人、そのことを努力した人かもしれない。
でも、いろんな人と出会って思う。
誰だって、何かは流せていない。
何を流せて、何を流せないかが違うだけ。
そして、傷には強くても、他者のたとえば能力の低さに、思想の違いゆえの怒りに翻弄されるなら、それもやはり、感情を流せてはいない。
怒ることも、傷つくことも、感情が乱れている点では同じ。
感情を乱さないことを目指すのではなくて。
怒ることも傷つくこともしないと目指すのではなくて。
どんなふうに感情を乱すかを考えたい。
他人を罵倒して怒るよりは、現状を変えるにはどうしたらいいかで怒りたい。
ただ苦しむよりは、自分の傷も他人の傷も覚えていて、優しく世界を変えようとするための傷でありたい。
この世界で、誰もが誰かの感情を乱し、誰もが誰かに優しくしてる。
乱れることは減らないかもしれないけれど。一つでも二つでも三つでも、無意識に殴っている回数を減らせますように。人は無知ゆえに、そんな気なく誰かを傷つけてしまうことがあるから。
乱れた感情を、ほつれた何かを、未来に美しい絵を織る糸にしていけますように。
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