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もし温め直せたら

あの日は博士が牛丼を食べたいと言った。
車で20分の所にあるウォルマート。
買い物時間を含めて往復およそ一時間。
一時間だった、たったの一時間。

「運命は劇的に変化する」

と書いた小説家を知ってるが、
その時は本に唾を吐いてやりたい気分だった。

近所の人間はなにからなにまで。
子供に老人は暇だろうから居るにしても、
20代や30代の大人、それも男女問わず、
普段は女を口説くのに忙しいケビンも居たのには驚いた。

牛丼の食材を抱えた俺が家の中に入れない。
こりゃ何かの映画でも撮ってるのか。
おい、俺はこの家の人間だ通してくれ!
と人波を掻き分けて家の中に入ってみても、
そこもかしこも人だらけ。
子供が家の中の物を我が物顔で扱い、
それを止める親も姿が見えない。

怒りと呆れが綯交ぜになった顔で更に家の中を泳いだ。
このしっちゃかめっちゃかの発生源は心当たりがある。

この家に存在する『ラボ』と呼ばれる部屋。
そこは普段人気は少なく、
機械の音だけが四六時中響いている、
そんな博士だけの部屋だった。

それがどうだ。

「博士!博士テメェ……お!」

怒鳴り散らしてやろうとラボに入るや、
目の前には想像の二倍以上の人だかり。
その中心には博士とデカイ機械。

「お、ロッキーお帰り。」
「博士、博士なんだこりゃ、おいちょっと」
「今日は賑やかだろう」
「いいから、早くこのパーティを終わらせろ!」
「何故だ?これからがお楽しみだってのに」

両手を左右に広げて眉を寄せるポーズはまさに欧米。
悪戯坊主がスーパーの袋を突いてくるので片手で散らすと、
デカい機械からチーン!という安っぽい音が響いた。

またこの博士、ロクでもないモン作りやがったな。
このデカイ図体に安っぽい音、
今度はどんな発明品を作りやがった。

そんな事を思っていると機械から今度は人が出てくる。
一つ向こうの筋に住んでるジョン。
お前、こんな得体の知れない機械に入るなんて死にたいのか。

「いやー、博士」

そんな命知らずのジョン、
二の腕が痒いのかポリポリしながら博士に寄る。

「なんか、何も変化を感じないんだけど……?」
「それじゃもう駄目だな、諦めろ。」
「なんだよ、この機械は嘘っぱちか?」
「お前さんがこれまで怠けてただけだ。
 ハイ、次の方どーぞー」

いや、次の方じゃない。
次の方じゃないだろ博士。
良いからこのドンチャン騒ぎを止めさせろ、
今直ぐこの家から全員を追い出せ。
俺がそうがなり立てるとようやく、

「ウチの助手が腹減ってヒステリー起こしちゃったからな、
 皆も各自家に帰ってランチにしてくれ。
 はい、皆集まってくれてありがとう、
 御飯終わったらまた来てくれ、実験はやるぞー」

いや、実験はやるぞー、じゃないが。

ドヤドヤと帰っていく大人達。
なかなかハシャグのを止めない子供達は叩き出し。
ハリケーン後の様に変わり果てた家の中を見渡すが、まぁ酷い。
地面に散らかったキャンディの袋を足で除けつつ、
ようやく持っていたスーパーの袋をテーブルに置いた。

博士は俺の事を助手だと言ったが、
俺は別に助手じゃない。

まだ日本の企業に勤めていた時分、
アメリカの大学院で博士号を取るというプログラムがあり、
それに応募して単身アメリカに渡たり、
そのままそこに住み着いたのが全ての始まり。
大学院や企業はどうなったのかという点については、
まぁ、紆余曲折色々あった。

だが世の中は厳しい。
いよいよ無職になり進退窮まり始めた時、
一人のインド人の知り合いが声をかけてきた。

「おい、お前『ギュウドン』を作れるか?」

ジャパニーズギュウドン。
まぁ、作ろうと思えば作れるが。すると、

「今日一日シェフをやれ。金は出すから」

と言う。
こちらも金に困っている身分、
料理の免許等は持ってないと伝え、
それでも良いから来いと言われたので赴いた。
そこで出会ったのが博士だった。

「美味いぞ、良いギュウドンだ!」

牛丼屋でバイトもした事がない人間が作る牛丼。
正直どんなものかと思ったが我ながらなかなかの出来栄え。
食材を用意してくれていたインド人の知り合いとその奥さん、
加えて同席していた『博士』と自分の四人分を作り、
皆が美味しいと言ってくれる光景はいいものだった。
そこで言われたのが、

「君、明日からうちに住み込みで働かないか」

という言葉。
言ったのは博士。言われたのは俺。

それまで住み込みで家事をしていた日本人が国に帰り、
別の日本人を探していたのだがなかなか見つからない。
そこで俺が無職になったのを聞き付け、
博士に紹介する席を設けたとの事だったが。

「いや、待って……家事手伝いなんて、した事ないよ」

少し前まで携わっていたのは流体力学で、
家事専攻の勉学なんて微塵もしていない。

「ちょっと俺には向かないんじゃないかと」
「君、ビザは?」
「え?」
「ビザは何だい?」

ビザは外国人がアメリカに留まる為に必要なものである。
ビザには困っていた。

「F1ビザか?」
「J1ビザです。
 でも先日研究室を出たのでもう期限が数か月。」
「取引をしよう。
 もし、君が僕の為にギュウドンを作ってくれるなら、
 パーマネントビザを取れるようにしようじゃないか」

それを聞いて思わずスプーンが落ちそうになった。
パーマネントビザとは永住ビザの事である。
間違っても簡単に取れるものではない。

「どうだね?」

一体どういう理由をこじつけたのか。
名目上は博士の『助手』という事になり、
中間に入ってくれた弁護士が上手く手を回したのだろう、
程なくして俺の手にパーマネントビザが転がり込んできた。
それが全ての顛末。

それから博士の身の回りの世話をして数年。
博士は甘みが強い牛丼が好みと言う事は判った。
しかし本当にする事は家事全般、
洗濯掃除に料理にギュウドン。
もしビザに臨時監査制度があったら取り上げられるだろう。

「うん、やっぱりギュウドンだ。
 ギュウドン・イズ・ベスト!」

そんな心配は知らず存ぜぬ、
とっちらかった家の中で俺の作った牛丼を今日も食べる。

「ところであのバカでかい機械、
 あれ、なんですか」
「マイクロウエーブ」
「電子レンジ?」
「人の心を温めるマイクロウエーブ。」
「……心の何を温めるんです?」
「熱意、夢、愛情。
 冷めかかった心をあっためるんだよ。
 そうしたらどうなると思う?」

またこの博士はとんでもない物を。

「……最初は誰で試したんですか」
「もちろん自分だよ」
「違いますよ、さっき来てたやじ馬。」
「ああ、ボビー」
「ガキ相手に試したのかよ」
「だって大人が一人も来なかったんだもん」
「そりゃそうだ、そんなウソくせえ発明品、
 誰が試すんだよ。」
「でもボビーの次はケルバーだったぞ。」
「ケルバー?あの不良が…?」
「チンしてやったら家に帰って絵を書き始めたんだ。
 それを見た両親が電話してきて、
 マイクロウエーブの事を説明したら、
 大人もどっと押し寄せて来てな。」

噂は聞いた事がある。
ケルバーは絵が上手だがそれを自慢した事は無い。
いつも悪ぶっててしょうもない事ばかりする。
家には沢山のスケッチブックがあると言われていたが、
絵に対する熱いモノは持っていたのか……。

「チンした事によって、
 ケルバーの絵に対する意欲が高まった?」
「まぁ、こっちこい」

ゴチソウサマデシタ。
博士と二人手を合わせ、
取り敢えず食器だけシンクに追いやってラボへ行く。

「ここ、このボタン」

博士が指さした所にはボタンが三つ。
夢、愛、趣味、とそれぞれ書いてあるが、
まるで子供のままごと道具のように見えてならない。

「……もっとましなセンスないの?」
「何を言う、シンプルさこそ至高、
 複雑さなど開発側のエゴに過ぎんよ、
 いつも言ってるだろ!」

いつも聞いてるけどさ。
でも博士、こりゃねぇよ。
まるで玩具の電子レンジがデカくなったようにしか見えない。

「これで押したボタンの熱が高まるの?」
「中に入って二分半だ」
「……副作用は?」
「失礼な!ありゃせんわい」

会話に割ってきたのはインターホン。
やってきたのは野次馬の続き。
画面には近所のウェスリーが映っている。

「ようウェス、昼飯は何食べた」
「ピザ。マルゲリータ。
 午後は俺が一番乗りか?
 あのマイクロウエーブ使わせてくれよ」
「何を温めたいんだ」
「俺の中に眠る才能を温める」
「……はぁ?」

そんなモンあるかどうかも判んないだろ。
でもそう言っては角が立つ。

「20ドル。一回チンしたかったら20ドルだ。」
「なんだよ、金取るのか?」
「俺が一回の電気代を計算したんだ。
 使いたかったら20ドル払え。
 眠る才能を目覚めさせたいんだろ。」
「後で払うよ、ツケてくれ」
「今だ。」

ウェスリーが立ち去ったあと、
玄関先には緑色のガムが吐き捨てられていた。
きっとウォーターメロン味のやつだ。
アイツがいつも暇さえあれば噛んでいる。

「追い返したのか?」

ラボに戻ると博士がパソコンをレンジに繋いで、
俺には到底理解できないような何かをしている。

「使用料一回20ドルって言ったら帰った」
「20ドルだと?
 ケチな事言うな、無料開放と言え」
「馬鹿!本当にアンタ……馬鹿!
 俺が昼に買い物行ってた一時間は幽体離脱してたのか!?
 それとも瞬間記憶喪失にでもなっちまったのか、
 あの野次馬の多さを見ただろ!
 ていうかアンタが呼び寄せたんだぞ!」
「ああ、最高だろ?
 データを提供してくれる相手がわんさと来た」
「ああ、しかも家の中までご丁寧に荒らしていった、
 家の中には重要な書類や発明品だって……、
 正規品じゃなくても凄い試作品だって一杯あるだろ!
 子供が盗んで行ったら大変なものまである!」
「大丈夫、全部GPS仕込んであるから」
「そういう問題じゃねぇだろ!
 回収に行く間に何かが起こったらどうする!?
 アンタはいつもそうだ、
 自分の発明品とデータに対する危機感が薄い!」

アメリカの家と家は間が広い。
だがきっと隣の家には聞こえただろう、俺の怒鳴り声は。
ラボの中には俺と博士、二人っきり。
お互い目をじっと見た。
もうお互い良い歳をした大人だ。
それが何でこんなに怒鳴ってるんだ、
この年になってこんなに怒鳴るなんて思ってなかった。

「悪かったよロッキー。
 でも聞いてくれ。
 だから君を助手にしたんだ。
 見ろ、君が全員外に追い出してくれた。」

俺の名は熊田弘明。
アメリカの大学院で「ヒロアキ」と自己紹介した時、
誰かが、

「ロアキ……Oh!ロッキー!」

と言い出して、
その響きがまんざらでも無かったので自分も、

「Yes,アイムロッキー!」

と名乗り始めた。
今じゃ博士が俺をそう呼ぶ。

「ロッキー、でもなんで20ドルにしたんだ。」
「20ドルなら冷やかしの人間が来なくなる。
 でも真剣な人間ならきっと来る。」
「なるほどな。」

冷やかすのに20ドルは割に合わないに決まってる。
冷やかしは低俗な暇潰しだ。
暇潰しに20ドルも払う阿呆はいないだろう。

それから暫くやってくる冷やかしを追い返し続けたが、
ある日遂に真剣な人間がきた。
五番街のキャシーだ。
冷やかしに来るような人間ではないと思っていたが、

「マイクロウエーブを使わせて欲しいの」

という言葉に条件反射で、

「20ドルだが大丈夫か?」

とそっけなく返してしまった。
大丈夫、持ってきたから。
そう言ったキャシーを中に入れ、ラボで説明をする。

電子レンジ自体は難しくはない。
夢、愛、趣味の中から一つ選んでボタンを押し、
あとはドアを閉めて二分半待つだけ。
説明する方も簡単すぎて不安になってくる。
じゃあやってみてとキャシーに言うと、

「ちょっと恥ずかしいから、
 使うところ見ないで欲しいの」

とはにかんでいる。
判ったよ、ごめんねとラボを出ると、
今度は自分が恥ずかしくなった。
どうもそういう他人の繊細な部分への配慮が出来ない。
結構な年も経験も重ねた筈なのに、恥ずかしい。

二分半が経ち『チン』と音が鳴る。
リビングで暫く待ってみるとキャシーがやって来た。

「ありがとう、使い終わったわ」

おお、キャシー。
なんか歩き方が自信に満ち溢れていると言うか、
胸を張って歩いてると言うか……。
一体どのボタンを押したんだい?
そう聞きたくてしょうがない。

「大丈夫だった?」

さっきのミスを挽回しようと声をかけると、

「ええ、これからが勝負よ。
 じゃあねロッキー、博士に宜しく」

と颯爽と家を出て行った。

そうか、熱を帯びた女性はこんなに美しいのか。
誰かを愛しに行くのか、
それとも夢を追いかけに行くのか。
行き先は判らないけれど、
思わず付いて行きたくなる程の『張り』を漲らせてるんだ。
きっと道ですれ違う他の男達も彼女に振り向く事だろう。

それから暫くしてキャシーの噂を聞いた。
彼女の家を通り過ぎるとピアノが聞こえてくる事がある。
それが下手かどうかまでは耳に入れなかった。
ただ心の中で密かにエールを送った。

「こんちわ」

キャシー以外にも20ドルを払いに来た人がいる。
それがエマ。ただし、レンジに入ったのは彼女ではない。

「はぁ?旦那を?」
「そう!コイツをぶち込んでチンしておくれ!
 この人、最近全然私の事に無関心なんだよ!」

突き出されたのはブライアン、エマの旦那さん。

「いや、ええ…?
 ブライアン、チンされる君はどうなの、いいの?」

そう聞いてもブライアンは何も言わない。
腕組みをしない両手をただブランと肩から下げて、
背は猫のように丸まって。
俺よりも年上なのに、まるで情けない恰好じゃないか。

「博士、はかせぇ!」

電子レンジはもうラボから運び出されて一階のリビングに。
そこからラボに居る博士に叫んでみると、
鼻をすすりながら発明家が現れた。

「いいんじゃないの、チンしてみたら。
 ジャパンにも言葉があるだろ。
 夫婦喧嘩はオオカミも喰わないって」
「犬、食わないのは犬だよ博士」
「オオカミだって喰いやしないよ。
 良いからやらせてみろって。」

この博士、完全にどんなデータが取れるか楽しみにしてやがる。
技術者倫理としては躊躇する場面なのは間違いないが、
エマの押しと物理的な腕力が凄かった。

「ほらここのボタン押すんだろ!?愛情愛情!
 アンタもとっとと中に入んなー!」

最後は足で蹴り込まれたブライアンだが、
果たしてそんな入れ方で愛情が温まるのだろうか?

だが博士の科学力がピカイチか、
二分半後に出てきたブライアンはエマを見て開口一番、

「ああエマ、今日の君は輝いてるよ」

なんて言い出した。
それを見た俺は一瞬体中に悪寒が走った訳だが、
とうのエマは大喜びで振り回すようにブライアンを連れ帰った。

だが三日後に再び家の中にエマの声が響き渡る。
旦那の態度が急に元に戻ったという事らしいが、
一応の決まりなんで、と20ドルを請求すると、
渋い顔をして今度はこちらを怒鳴りつけてくる。
アンタ、またそんなに取るのかい?!
詐欺で訴えるよ!!

「心が結構冷えてたんでしょ。
 だったら何度か温めないと無理だよ。」

偶然ラボから出てきた博士がエマにそう言ってくれて、
エマも何かバツが悪かったのか渋い顔で20ドルを差し出した。

しかし再びチンしたその日から三日後、またエマがくる。
当然ブライアンも一緒だ。
また態度が元に戻ったよ、ほら使わせて!
そう言いながら差し出される20ドルはよく見ると震えている。
きっとエマの怒りが心から手を伝って紙幣を揺らしているんだ。
フラワーロックだってきっとこんなに揺れないぞ。
晩飯時にそう博士に話したらオレンジジュースを吹き出していた。

それから更に三日後。

「ちょっと、もういい加減にしてよね!」
「な、なにが?」
「なんで旦那は元に戻るのよ、アタシ知ってるんだからね!
 キャシーは一回チンして今でもピアノを続けてるじゃない!
 チンをし直しには来てないんでしょう!?
 なんでうちの旦那は何度も何度もチンしなきゃいけないのよ!
 ええ!?」
「えー……いやー……」

そんな事俺に言われても。
そう思ってブライアンの顔を覗き見ると、
彼も「そんな事俺に言われても」という顔をしており、
危うく吹き出しそうになるからその顔を止めろブライアン。

「20ドルだけど……またする?」
「もう60ドル払ってるんだよ!
 また払えってのかい!?この詐欺師め!
 今度払ったら80ドルだ!
 80ドルあったら何が買えると思う!?」
「……猫の餌とか?」
「猫の餌なんて飼うかこの馬鹿ーー!!」

エマ、声がデカい女。
恐らくこの辺りで声量選手権を開いたら一等賞。

「あ!こら博士!このエセ発明家!
 アンタもこっちに来なよ!」
「なんだエマ、また来たの」

ラボから出てきた博士が持っていたのは白のコップ。
コーヒーでも淹れなおすのだろうか。
ごめん博士、今朝で丁度コーヒー切れたんだけど。
それよりこの切れたエマなんとかしてくれませんか。

「キャシーには贔屓したんだろ!
 アタシ達は金づるになるだろうって詐欺したんだね!」
「そんなぁ、まさか」

コップを持ったままの姿勢で博士が玄関に来てくれる。
ありがとう博士、正直俺にはもうこの女は無理だ。

「じゃあなんでキャシーは何度もチンしなくて、
 うちのブライアンはチンしてんのさ!
 説明してごらんよ、ホラ!ええ!?」
「キャシーはちゃんとしてるんだろうね」
「ちゃんとって何がさ!!」
「ちゃんと自分で心に薪をくべてるんだよ。
 一旦付いた熱を絶やさないように彼女自身頑張ってるのさ。
 聞くけどエマ、
 お前さん、優しくなったブライアンにちゃんとしたかい?
 他人の家の事情なんざこれっぽっちも知りたくないけど、
 家の中ではお前さんばかり怒鳴ってるんじゃないのかい。
 何かにつけてギャーギャーと何度も、
 大した事じゃなくてもヒステリーでさ。
 愛が戻ったブライアンに対して何か変わってやったかい?
 人の心は弱くて繊細だよ。
 ブライアンの心がすぐ冷えるんじゃない。
 エマ、お前さんが冷やしてるんじゃないのかい。」

覗き見ると、
案の定白いコップの中は底が見えてる。
淵にちょっと黒い液体が付いてるだけで、
震えもしないし、わめきもしない。

エマはというと、
口を梅干しのように尖がらせたまま黙っていた。
その顔がまた不思議におかしくて、
でも今は笑う場面じゃない事くらい判っていて、
なんだこの夫婦は、
不似合いな場面で俺を笑わせに来るのを本当に止めろ。

「あの、20ドルだけど……」

笑いを紛らわすためにそう話しかけたんだが、
エマは一言も言わず踵を返して帰っていった。
それに続いてブライアンもゆっくりと玄関を後にした。

「あの……博士」
「うん」
「実はもうコーヒー切れてて……」
「え?そうなの?新しいの買ってきて。
 あ、今日のディナーはギュウドンが良い」

博士がそう仰るのなら、そのように。
言われた通りに作った牛丼を二人分、
テーブルに着いて食べていると、
博士が珍しい事をした。
口に物が入っている最中喋り出したのだ。
そんな事は初めての事だった。

「あのね」

と言い始めたのだが流石に慣れなかったのか、
口の中の物を一度全部飲み込むと、
一口オレンジジュースを飲んで息を整えた。

「あのね、以前僕にギュウドンを作ってくれてた人だけど、
 ジャパンのミュージシャンだったの。」
「へぇ……」
「全然売れなくて、気分転換でアメリカに来てね、
 そこで僕と出会って、彼の作るギュウドンが美味くてさ。
 それで口説いて君みたいに働いてもらってたの。
 給料も良いって喜んでたんだけどね、
 ある日急に日本に帰るって言って。
 それは困る、どうか残ってくれと言ったんだけど、
 日本に帰ってね、やり残した事があると言った。
 それから一枚僕の所にCDが送られてきたよ。」
「そうだったんですね……。」
「マイクロウエーブはね、温める機械だ。
 僕が発明したアレもそう。
 でも温め『続ける』機械じゃないんだよね。
 そこまで高性能な物じゃない。
 でも人間は持ってるんだよ。
 そんな高性能なものを。
 あとは、ちゃんとメンテナンスして、面倒見てるかどうか。
 君はどうだい」
「えっ?」
「なんて言って、ははは、
 またギュウドン作ってくれる人探さなきゃいけなくなっちゃう。
 大丈夫、何かに熱くならなきゃいけない法律なんて無い。
 君は僕を助ける為にここに居て下さい。」

博士がどんぶりにぶつけるスプーンの音を聞きながら、
自分の人生をふと振り返る。
何に熱を費やしただろうか、何から冷めてしまったのか。
胸のどこかが少しチリつく。


今日はピアノの旋律が聞こえてくるかもしれない。

お楽しみ頂けたでしょうか。もし貴方の貴重な資産からサポートを頂けるならもっと沢山のオハナシが作れるようになります。