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優しさを知れるなら

五年前に店を出した牛島さん。
最近どうしているのかと思えば、
体調を崩して暫く店を休んでいるのだとか。
心配になり見舞いに行く事にした。

牛島さんは兄弟子で、
鮨を握る事以外にも色んな事でお世話になった。
結構なお人好しでお金を借りた事も何度かある。
お前なら返してくれるだろと都度言われ、
こちらも当然だがちゃんと全額色を付けて返してきた。

「猫なんて飼ったんですね」

好物のアップルパイを手に、
中野区の奥まった場所にあるマンションを訪ねた。
すると出迎えてくれたのは牛島さんと猫一匹。

猫がこちらに寄って来た。

「下手に動くと引っ掛かれる、じっとしてたら大丈夫」
「牛島さん、猫好きでしたっけ」
「まぁ、飼っちまえばなんでも可愛いもんよ。
 そう言えばお前、最近どう」
「最近調子良いですよ。
 昔みたいに肩が痛くなる事ももう無いし。
 お客さんも美味しいって言って貰う事が多くて、
 鮨握るのが楽しくて仕方ないですね、今。」
「そうか」

トコトコと猫が尻尾をあげて肛門を見せてくる。
上がった尻尾を触ってみたがうんともすんとも言わず、
そのまま牛島さんの方へと猫は行ってしまった。

「コイツ、何が触ったか判らないらしくてよ」
「この猫ですか?」
「ああ」
「病気ですか」
「そんなもんだ。あのな、」
「はい」
「俺、もう鮨握るの辞めるわ」
「えっ」

牛島さんの部屋を出るまでに色んな言葉を並べた。
並べた言葉は思いつく限り、言える限り。
これまでの経験、
金の不安、
一緒にやりたかった事。
けれどそのどれもが暖簾に腕押し、糠に釘。
猫を撫でながら「うん」か「ああ」しか言わない牛島さん。

「ここのアップルパイ美味いらしいんで食べて下さい」

最後に言った言葉はなんだったのだろうか。
もう今更アップルパイなんて。

そもそも女の一人も口説いた事の無い口が、
一人の男の決意を捻じ曲げられる筈も無かったのか。
こんな事なら下手でも良いから心理学を齧っとけば。
下手に失恋するよりも、
世話になった先輩が包丁を置くのを、
指をくわえて眺める方が辛かった。

でもくわえた指をしゃぶるだけではない、
何かが悔しくて血が出る程かじってみれば、
心の何処かに火が付いて、
牛島さんの店へと足を向けていた。

「常木さん?」
「ええ、そのお客さんに牛島さん、
 家に呼ばれたみたいで」
「行ったの?」
「そう話してましたね。」

その常木と言う客。
牛島さんの店に来た際に、
自分も握って振る舞うのが好きだからという切り口に、
牛島さんを自宅に招き入れ、
そこで珍しい寿司ネタを振る舞われたらしい。

「何喰ったって言ってた?」
「いやぁ、そこまでは」
「そっか……」

あっ、でも名刺がありますよ。
うちは客から貰った名刺を一括管理してるんで。
そう言った牛島さんの弟子。
おい、それは顧客情報の漏洩ってやつじゃないのか。
そう言ってやりたかったが、
弟子の目もどこか冷めたものがある。

「お前はその常木って人の家に行ったのか」
「牛島さんに行くなって言われまして……。」
「そうか」
「……念の推し方が尋常じゃなかったです。
 私も行きたかったんですけど、
 お前はこの店に居ろって」
「判った、俺が行く」

うすらぼんやりと、
牛島さんに包丁を置かせた誰かの影が見えた。
ただの通りすがりの影なのか、
それとわざとチラつかせた影なのか。
影の揺らぎが誘うも遠く、
それが余計に駆り立てる。
その影を追えと、駆り立てる。

メールを送る事にした。
私の兄弟子が以前お世話になったようで、
宜しければ私共のお店でおもてなしを出来ませんか、と。

すると返事はこうだった。
最近は御馳走になるよりも振る舞う方が趣味でして、
面識がないとは言えこうしてお声がけ頂いたのも何かの縁、
良ければ貴方も私の家にいらっしゃいませんか。

罠を張ったのか、
それとも張られたか。

どうせ張られた罠ならば、
嵌って這い出て度肝を抜こう、
誘い込んだか誘い込まれたか、判らなくしてやる。

向かった先は門の構えから上等で、
靴を脱ぐ玄関の広さと言ったら、見た事も無かった。

「広いでしょう。人を呼ぶのが好きですからね、
 大勢がいっぺんに来ても良いように作ったんですよ。
 さぁ、どうぞ中へ」

夕飯の頃合いにと言われてその通りに。
通された部屋は既に夕飯支度が出来ていて、
目の前にはこの常木と言う男が握ったのだろうか、
確かに刺身が二貫、先に出てきた。

「これは……なんの肉ですかね」
「馬ですね」
「馬?馬にしては噛み応えが」
「農耕馬を」
「農耕馬?」
「色々試してみるもんでね、悪くないでしょう」
「はぁ、こんな味がするもんですか」

こちらは相手を伺い、
相手はニコニコと笑っているが、
こういう時の笑み程胡散臭く見えるものはない。
馬の肉で、どうしようってんだ?
猜疑心があらゆるものを怪しく見せる。

にゃあ

と鳴き声が聞こえたのは、
戸無しの通路の闇の奥。
猫が一匹、ちょろちょろと部屋の中へやってきた。

そう言えば、牛島さん、猫を。

「猫は大丈夫ですか。アレルギーとか」
「え?ああ大丈夫です。
 そういえば牛島さんの家にも猫が――」
「会いましたか。
 あれは私が差し上げた猫でね。
 牛島さんも快く受け取って頂けて、まぁ良かった」
「猫を?」
「ええ、私、猫好きなもので。
 でも買い過ぎだと妹にも怒られるんですよ。
 それで、一匹もらってやってくれないか、と」
「……病気の猫を?」
「ああ、その事ですか」

猫はやってきて足元をくるりと回る、
その尻尾を触ってみたが、知らぬ存ぜぬ、何もなく。
猫はそのまま常木の方へと歩き去った。

「可哀想な猫ほど可愛く見える性分なんですよね。
 この猫も、接触感覚がないんですよ」
「……飼ってらっしゃる猫、全て?」
「まぁ、そんなに多くないので」

多くないので、苦労も無いです。
隠れた言葉が無音の中から聞こえてくる。

「ところで、あれ、あれ。
 貴方のお店でも半身をやられるらしいですね。」

『半身』とは水槽の中の魚を一旦外に出し、
身体半分だけ切り取って元に戻し、
そのまま泳がせる当店名物の見世物である。
牛島さんも自分の店ではそれを行っており、
弟子の店として賑わっていた。

牛島さんの店に常木が訪問した日、

「いやぁ、泳ぎますねぇ」

と言ったらしい。

「面白いものを御覧に入れましょう」

そう言って連れて行かれたのは大きな生簀(いけす)。
中には大小様々な魚が泳いでいた。

「この子達は人懐っこくてねぇ。
 ほらこうやって手を入れると」

常木が屈んで生簀に入れた手に、
ぞろぞろと魚がやってきて我も我もと腹をこする。

「ほら、やってみて下さいよ」

一体何が、そう思って手を差し入れてみると、
まるで猫がじゃれつくように魚が手に群がって来た。

「撫でてみて下さい、
 撫でられた魚はもっとじゃれますよ」

なるほど、言われる通りだ。
撫でてやった魚はもっと、もっとと擦ってくる。
魚によって触れて欲しい場所は違うのか、
頭を擦るもの、腹をするもの、あとからあとから止まらない。

「おや、お前も来たのかい」

魚に夢中になっていて、
常木の言葉にはっとなった。
言葉の向かった先を見てみると、
また先程とは別の猫が一匹、横を通り過ぎるように歩いていく。

「ちちち」

常木が呼ぶと猫はピン、と耳を立て、
進行方向を直角に曲げてこちらへと寄って来た、のだが。

いや、この猫。
腹が半分、無いではないか。

失くした右腹を傷むでもなく、
ただ血を滴らせながら猫が一匹、
そんな光景見た事も無く、
生簀に入れた手が固まり、
視線もこおり、
ただ耳は、
入ってくる言葉にされるがまま。

「その子も痛みを感じないんですよ。
 たまにこうやって減らしてね。
 でもあなたも見慣れたものでしょう。
 魚は痛覚が無いと思って、
 この猫と同じ事をさんざんやってきたんだから。
 でもね、私思うんですよ。
 本当に魚に痛覚は無いのかって。
 だってほら、この生簀の子達。
 撫でてやるのが判るんですよ。
 気持ち良いってのが触られて判るんですよ。
 料理と一緒じゃないですかねぇ。
 甘い辛いが混ざって美味い、
 痛い気持ちいいが混ざって――なんて言うか、
 生きていると感じる?
 痛いだけでも麻痺してしまう、
 気持ち良いだけでも麻痺してしまう。」
「さっ  さっきの さっきの肉は」
「美味かったでしょ」

猫は常木の周りをくるりと回ると、
腹から血を垂らしながらそのまま気紛れに去った。

「生き物はね、そっとしてても面白くない。
 突っついたりして刺激するから面白い。
 人間も例外では無くてね。
 こうして色々話してやると、
 鮨を握れなくなる人もいるんですよ。
 もちろん、そんな人はたまにですけど。
 結局色んな理由とか、少しも気にしなかったりとか、
 人に寄りけり、でもね……たまに握れなくなる人がいる。

 あなたはどうですかね」

生簀の中の手を引き抜いた。
次から次へと擦られる魚の身体が、
これ以上ひとなつっこくされるのが、
背筋が凍るようで。

「でも一つ良い事があるんですよ。」

と常木が続ける、
もう耳はされるがまま。

「魚は痛いと言わないんですよ。
 鳴き声も出さない、ただ口をぱくぱくするだけ。
 痛いと言えたら、
 どうだったんでしょうね。」

部屋の床には赤い水玉が点々と落ちている。

半身の魚は遅かれ早かれ助からない。
あの猫も、もう。

そして口にしたあの肉は。

農耕馬の肉なんて、
喰った事が無い。


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