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鯖のままごと 中編
このオハナシは続き物です。
→前編はこちらからどうぞ←
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親がそうだったせいでしょうか、
お酒も煙草もあまり好きじゃありません。
お酒は学生の時にちょっと飲んだくらいで、
働くようになってからは忘年会と夏のビアガーデン、
それと部署の集まりなどでほんのたまに出る飲み会、
アルコールを口にする機会はそんなもの。
酒も煙草も、賭け事も。
賭け事は怖くてそういう場所に近寄った事もないんです。
大学時代に何か一つ、
羽目を外しといた方が社会に出て変な苦労はしょい込まない。
そんな話を聞いた事もあったのですが、
見事に私は何にも羽目を外さず社会に出てしまいました。
今となってはそれの良し悪しは判らないのですが、
それでもこう思う事があるのです。
お酒が好きなら酔いで退屈を楽しむ事も出来たのでしょうか。
煙草が好きなら煙で孤独を紛らわせる事も出来たのでしょうか。
そんな事をネット掲示板なんかに書き込んでみると、
「ポエムを読むなら別でやれ」
なんて邪険にされて二の句を継げない心にされる有様。
別にポエムを読める程の文学を学んだつもりもないのですが、
どうやら人間の悩みは少し長く語るだけでポエムになってしまうみたいです。
煙草も吸わないし酒もダメ、
マージャン競馬も触れないし、
パチンコなんて銀色の玉がある事しか知識が無い。
ソシャゲのガチャに車が買えるほどのお金を使った事も無いし、
千葉にある夢の国にも修学旅行で行ったきり。
春はサワラ、夏にスイカ、秋はマツタケ、冬にカニ。
そんな旬の名物を特に楽しむ事も無く一年をただ過ごし、
ヤマザキパンのアップルパイを好んで食べてる休日の昼。
ここまでのプレゼンで私が面白味のない女だとお思いでしょう。
でも私、部長と不倫をするような女なんです。
妄想の中で、なんですけど。
孤独な不倫です。
酒の様に誰と一緒に飲む事も無く、
煙草の様に誰と群れて吸う事も無く、
賭け事の様に一緒に叫ぶ相手もいなければ、
ただ孤独に私の頭の中で妄想をかき混ぜるだけ。
けれど一度妄想で部長に触り始めて貰えば眠ったように外界と自分を隔絶できます。
他の事に浮気する事無く、いかがわしい事の為に只管磨いたこの妄想力です、
他の誰と比べた事は無いのですが妄想の深さにだけは自信があります。
しかし最近どうも妄想の調子が狂うのです。
症状としては部長が妄想の中で私を触って来ても、
気が付けば私の顔があのトイレの乙姫様になってしまうという事。
こんな事は今まで一度もありませんでした。
妄想は私の物ですからせめて妄想の中で良い思いをしたい。
そう思ってこれまで他の人には言えないアレコレを散々してきたのですが、
自分の顔が他の人間に置き換わると言う現象はこれが初めてです。
余程私の脳味噌があの乙姫様の顔を気に入ったのでしょうか。
あれから一晩経っていつもの通勤電車、いつものつり革。
ギュウギュウに押される苦しみを和らげる事も兼て妄想をしたところ、
やっぱり部長にいやらしい事をされているのは乙姫の顔の私。
これは、どうしたもんかなぁと思って何回か妄想をリセットしてみるのですが、
最終的に私の顔は乙姫様の顔に変わってしまうもので、
最後は「じゃあもういいです」と諦めてしまい、
部長と乙姫顔の私を妄想の中から締め出したのでした。
だって、
今まで自分とだけ身体を重ねていた男性が、
急に他の女に手を出してる様を見たがる女がこの世に居ますか。
妄想の中とは言え、
これまで部長が手を伸ばしてくれたのは私だけ。
家で待っている奥様を放っておいて、
退社の後のホテルで私とせっせと汗を流し、
奥様が用意した夕飯を冷ませる女は私だけだったのに。
本当の不倫もこんな感じなんでしょうか。
変な優越感に浸っていても、
ある日突然捨てられるような別れを切り出されるものなんでしょうか。
だとしたら皆さん、どうして不倫なんかしてるんでしょうか。
そもそも私の様な気持ちを抱えながら不倫をする人がいないんでしょうか。
部長は白髪染めを使わない男性です。
四十を少し越えた頭髪にやや目立つほど混じる白髪。
それを隠す事も無く「早く総白髪になりたいんだけど」とも仰るほど。
超の付くほどの愛妻家で、帰る前には必ず連絡を入れ、
噂によれば今でも出勤前のキスを玄関先で交わしてらっしゃるとか。
身体はやせ型なのですが身長は180に届くほど、
お子さんが二人いらっしゃるとかで、
最近はゲームに夢中で構ってくれなくなっちゃったと寂しがってるらしくて。
私もそんな男性に愛されてみたい。
不倫でもいいから。
そう思って始まった妄想不倫です。
部長に、私が、愛されないと意味が無いんです。
久しぶりに電車の中で妄想をせずに呆けてみると、
つり革がとても冷たい事に気付いてしまいます。
そうか、もう秋も終わりが近いんですね。
会社に辿り着いてみると今度は乙姫様に会うのが怖くて、
また妄想の中に出てきて私の場所を奪いそうで、
トイレに行くのを我慢して両足をきゅっと閉じました。
乙姫様の噂を聞いた時にはあんなにトイレを巡ったのに、
打って変わって会うのが怖くてトイレを我慢するなんて。
膀胱炎になりそうなほどおしっこをため込んでトイレに行くと、
自分でもびっくりする位の音が股間から出たのでした。
それから一週間、
膀胱炎の不安と引き換えに乙姫様と会う事は無かったのですが、
依然として妄想の中の私は時間が経てば乙姫様に取って代わられる始末。
顔が変わると妄想をぷつんと区切り、
しばらくは虚空を眺める作業に入るので家ではオナニーもはかどりません。
家のベッドで一人横になり、
ああ、鯖が一匹、寝床で横たわっているだけ。
捌いてくれる男の一人もおらず、
ただこの身、朽ちるのを待つだけか。
なんて、古風な自虐をかますだけ。
このままでは精神が不安定になり、ついには崩壊しかねない。
どうにか妄想を安定させるしかない。
ベッドの上に座禅を組み、両手を開いて膝の上に置く。
なんか読んだ漫画の誰かがこんなポーズして修行してた。
精神を集中して部長に妄想の中で登場して頂く。
妄想の舞台は横浜のとあるホテル、
出張で二人で横浜まで来たは良いが突然の気象異常で路線が封鎖、
同じ状況のリーマンたちが大挙して押し寄せたため最寄りの東横インが破裂寸前、
仕方なく二人で同室の部屋に入ってシャワーを浴びると、
「いつものホテルじゃないから新鮮だな」と言って部長がバス室の前にいて、
そのままキスされつつ部屋の明かりつけっぱなしでベッドまで連れてかれる。
はい、そのままそのまま、
いいよ調子良いよ、私の妄想絶好調。
このまま最後まで妄想いってみよう!
妄想に全神経を集中させて、
お尻には座っているベッドの感触も届かない。
私の脳と繋がっているのは妄想だけ、
体は宇宙の一角(自分の部屋)に置いてきた。
流石精神を集中させただけはある、
ろくに行った事も無い横浜にあるかも判らない駅の最寄りの東横イン。
ちょっとチープな内装も、ほの暗い黄色の白熱灯も完璧なイメージ。
部長の声も瞳も今日はいつにもまして調子が良い。
あ、よくイメージできているって意味です。
部長の手が私の身体を開いて下さって、
夜に少し伸びてきた頬の髭が太ももに当たってジョリジョリする事でしょう。
それからキスを首筋から始めて耳、頬、おでこと迂回するいつものコース、
そしていよいよ口へのキス、
という所で見えた私の顔が乙姫様になっているではないか。
駄目か。
勝てないか。
美人には勝てないのか。
こんなに集中しても取って代わられるとは。
そうだ、これはもしや相手が部長だから駄目なのでは。
試しに他の男で妄想を繰り広げてみてはどうでしょう。
そうなると相手は誰が良いのだろうか。
同僚の鈴木、高校の時サッカー部だった加藤、大学で憧れた桑田。
いつも最寄りのコンビニで働いてる佐村って人。下の名前は知らない。
昔自動車教習で教えてくれた初老の教官。
中学の時に美術を教えてくれた寿村先生、は駄目だな。もう記憶の輪郭がぼやけてる。
色んな男性を妄想の中で不倫面接にかけてみたけれど、
どの男も駄目、まるでオハナシにならない。
今の部長に勝る男が見つからないし、
部長より劣る男と気休めの不倫なんか(妄想の中でも)したくない。
それに他の男達は内面もよく知ったもんじゃないし、
その点部長はこれまでの触れ合いの中でその人柄を知れている。
私は不倫に憧れて不倫をしている訳じゃない、
部長という人柄に憧れて不倫をしているんだ。
妄想の中だけど。
だから他の女に邪魔をされるのも嫌だし、
ふと我に帰った時にそれが結局妄想なんだと思い出すのも、
またどうしようもなく辛いのです。
こんな馬鹿な事をしている女、私の他にこの世に居るのでしょうか。
そんなある日、避けてはいたものの、
トイレに行こうとしたら入り口から掃除道具を持った乙姫様が出てきました。
最早数週間ぶりの遭遇です。相変わらずお可愛らしい。
しかし私にとっては妄想を乗っ取る憎き仇。
一瞬だけ合ってしまった目を即座に逸らし、
そのまま挨拶もせずに横をすり抜けてトイレに入ると、
まるで自分が二流ドラマの悪役になった気分でした。
パンツを下げて用を足して少しの罪悪感にさいなまれていると、
壁の向こうから他の女性達のこんな声が聞こえてきたのです。
「ねぇ知ってる、あの子、不倫してるらしいよ」
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続きます
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