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この風はいかがでしょうか

妻が私を評してくれた言葉の中に、

「好きな物を好きでいさせてくれる人」

というのがある。

私は不自然なく無理なく妻に接しているつもりで、
彼女の機嫌を取ろうとか、
そういう意図で行動をした事はあまりない。

いや、流石にそれは嘘になるか。
愛しい相手だ、笑って欲しくて、喜んでほしくて思いを巡らす時はある。
けれどどれも夫である私自身の無理の無い範囲で。
同じように妻にも無理は強いないように心がけている。

人は欲。

食べたい、寝たい、動きたい。
お金が欲しいし、綺麗でいたい。
たまには笑って、涙すらも出したい時がある。

それらが誰かと誰かの間で都合がつかなくなった時に、
人は争うのだとおばあちゃんから教えられたのは七歳の時。
それから大人になるまでの人生は答え合わせのようだった。
なるほど、確かに人の欲が相容れない時、争いは起こる。

なるべく自分の欲と相手の欲が不都合にならないようにしなさい。
大人になっておばあちゃんの言葉の実践が難しいと骨身に染みる。

色んな人と欲の不都合を形成し合って喧嘩をし、
すり合わせて落しどころを見つけて、
なるほど、人間社会は面倒臭い。
もし狸か狐が化けて人間社会に紛れ込んだら、

「こんな面倒な世界、やってられっか」

と早々に尻尾を巻いて逃げ出す事だろう。
けれど残念、私には巻く尻尾も無いので人間を続けるしかない。

近くにいる人間程『欲』をぶつけ合わなくてはならなくて、
恋愛沙汰に巻き込んだ相手なんて尚の事。
数人の女性とすったもんだして、
大学時代のある時にお付き合いを始めたのが妻だった。

男は惚れた女に確定的に数種の質問をするが、
その中の一つが「何が好きなの?」だろう。

好きな相手の好きな物が判れば、
それを送る事で相手を喜ばす事が出来る。
これを好きな相手に聞かない男がこの世にいるだろうか。
好きな相手が何か荷物を持っている時に、

「それ、持とうか?」

と声をかける位の気遣いが出来る男はこの質問をするだろう。
それ即ち、この世の男全てと言っても過言ではない。

当然私も妻が重い物を持っていたら持とうとするし、
この世の男女の理に習って出会って割と早い段階で尋ねた。
君、好きなものは何なの?
すると妻がこう言った。

「風」

風、だ。

ブランド物のバッグでもない、有名店のケーキでもない。
ハーゲンダッツでもなければ可愛い爬虫類でもない。

とても短く「かぜ」と妻が言ったので、
その時私は聞き間違いを防ぐためにもう一回言ってと妻に頼んだ。
すると妻がもう一度言うのだ、「かぜ」と。

かぜとは、風なのか?それとも風邪なのか。
病気にかかる趣味の人間なんてこの世にいないだろう、
(もしかするといるかも知れないが当時の私はそう考えられらなかった)
これは風の事を言っているのだろうか?

風を連想させる言葉を思い巡らし、
ひゅー、と吹くやつか?と妻に問えば、
そうだ、と返事が返って来た。

その情報を仕入れたその日の夜に友人に相談に向かったのをよく覚えている。
水瀬という奴で、まだ付き合い始めてなかった妻の好きな物を聞き出せ、
そう助言をくれたのがこの水瀬でだった。

奴の下宿先にコーラを土産に持参し、事の顛末を聞かせた。
するとどうだろう、水瀬は疑う事無く拍子抜けしたような顔で、

「随分と安上がりな女だな」

と呟いたのだった。
それから何かを取り繕うかのようにこう続けた。

「でもまぁ、下手に高価な物を言われなくて良かったじゃないか。
 ヴィトンのバッグとか、車とか。
 それに爬虫類系の生き物が好きとかじゃなくて、風だろ?
 風なんてそこら辺に吹いてるし金もかからないじゃないか。
 大抵の人に嫌われもしないし。
 今度どこかの高台にでも連れてってやれ、
 デートで風が吹きまくってるような所に連れてきゃ間違いなし!」

夜中だったこともあって水瀬の口調は少々乱暴だったが、
それでも聞いていて「やっぱりそうだよな」と思ったのも事実だ。
妻から風が好きだと聞かされた時、
正直なんて金のかからない女だろうと思ってしまったのだ。
何せ親戚のオジサンから口煩く、

「大学に行くなら女に気をつけろ、
 奴らはとにかく金がかかるぞ!
 金をかけていい女にだけ金をかけろ、
 それが男の腕が問われる部分だからな、
 これが下手になるようだったらお前、
 社会に出てもロクな女に引っ掛からねぇぞ!」

と説教をたれてくれたのだ。
そのような教育の甲斐もあってか、
好きになった女が多少値の張るものを欲しがっても狼狽えない自信があったが、
まさか返事が風とは。
オジサン、この場合はどうしたら良いんですか。

それから半年をかけて妻とお互いを知り合い、
じゃあ、お付き合いをしませんか、どうですか、となった。
それまでに数回、片手から漏れる回数のデートに行けたが、
うち一回を除いては風が良く吹く場所に妻を連れて行った次第だった。

付き合い始めた日、相談していた水瀬にも夜に一人で報告に行き、
交際まで随分時間がかかった事をなじられはしたが安堵の言葉を貰った。
とにかく、良かったじゃないか、おめでとう。
こちらが持参したコーラをコップで飲みながら水瀬がそう言ってくれた。
まぁまぁ、お陰様で。そういいつつ空のコップにコーラを注いでやると、
水瀬がこう継ぎ足した。

「そう言えば『風デート』には既に何回か行ったんだろ?
 良い相手を見つけたよな、これからも財布に優しいデートづくしになりそうか。
 なにせディズニーもテーマパークも興味無いんだろ、お前の女。」

そう言われて少し「うーん」と唸った。
水瀬がコーラを一口含んだ後、唸って動かない私を見て、
「すまん、ちょっと言葉が汚かったかもしれん、気を悪くしないでくれ」
と言ったが、いや、まぁ言ってる事はほぼほぼ合ってるんだが、と掌を見せた。

妻とのデートに関して金がかからないと言うのはちょっと違う。
まず、良い風が吹きそうな場所へと行く為に電車代がかかる。
良い風が吹きそうな場所ほど辺鄙な所にあるので割と高い。
現地に行ってしまえば後は確かに金はかからないのだが。
そう漏らすと水瀬も「そうか」と言った。

「だけどな、水瀬。」
「ん、なんだ?」
「金がかからない物だからこそ、判らないんだ」
「何がだ?」
「物の良し悪しが、判らない。」

風の良し悪しが判らない。
そう、私には風の良し悪しが判らなかった。

金がかかると言うのは既に誰かがそれを評価してくれた、という事で、
値段と言うのは期待値であり信頼値に他ならない。
500円で売られている品物は500円の効果が見込めるし、
値段の高い低いで比べる品物の良し悪しが判定できる。

その点、金のかからないものというのは難しい。
全ての判断が自分、もしくは送り主に委ねられてしまう。
風に値段があるか?無いだろう、聞いた事が無い。
扇風機には値段が付いているが、付き合う前に尋ねたところ、

「そういうのは好きじゃない」

という情報が得られたので人工的な風はお気に召さないらしい。
同様なのか、ビル風も別に好き好んで浴びたい訳ではないらしかった。

お気に召さない、らしい。
浴びたい訳では無い、らしい。

全ては「らしい」。
妻が風が好き、そこまでは判っていた。
だがどういう風か好きかは理解が出来なかった。

付き合う前のデートである丘に連れて行った時、妻が両手を広げながら、

「こういうのがね、好きなの!もう最高!」

と言ったがその時吹いている風の何が良いのか理解は出来なかった。
勢いよく風が吹いていた事は流石に判ったが、
それがビル風とどう違うのか、何が良いのか、何が最高なのか、
妻と一緒に風に吹かれながらあれこれと考えたが何も判らなかった。

だけど一つだけ判った事があった。
その風を受けている妻は、本当に嬉しそうにしている、という事だった。

風の事は判らないが妻の事は判る。
妻は風が好きで色んな所の色んな風を浴びたと言う。
同じ事だ。私も妻が好きなので色んな場面の妻をじっと見てきた。

だから妻が嬉しそうにしているのかそうでないのか、
それ位は判るし、むしろそれが判る事がとても重要なのである。
惚れた相手が嬉しいか、そうでないか、その原理は判らないまでも、
嬉しい様子を悟れる事が私の最高の喜びだった。

結局私が妻の思う風の良さを理解する前に妻は『妻』になってしまったのだが、
相手の全てを理解するなんて事は土台無理な話なのだった。

考えてみてもらいたい。
同じ血が流れている親兄弟でさえ考えている事は完全に判らないと言うのに、
妻とは言え他人の考えている事の一から十まで判るだろうか。

私に判る事は、妻が風で喜ぶ、ただその事だけ。
但しビル風は嫌いで、扇風機の風もお気に召さない。
台風の前に吹く風は格別に好きで、
秋になる前の風はとにかく匂いが良いらしい。
春の風は柔らかさが一級品で、
夏の風はまるで酔った鬼が酒を勧めてくるようで面白いと言う。

夏に関しては本当に理解できなかった。
暑いだけだ。夏の風は。

しかし妻は風だけを喜ぶ人間じゃない。
美味しいものを食べれば美味しいと言うし、
面白い事が腹を抱えて笑う。
寝る前にはよくキスをせがむし、
風だけが妻を幸せにする訳ではない。

だけど妻の風についてずっと考えてきた。
どんな風が好きなんだろう、好きな風の特徴はなんだろう。
一体何が妻に満足を与えているのだろうか。
ただ勢いが強ければ良い訳ではないらしいし、
かといって弱くてもいけないようだし。
頭の中でこんなに風の事を考えている夫がこの世にいるだろうか?
恐らく私だ、私が一番この世で風の事について考えている夫だ、自信がある。
それもこれも、妻のおかげだ。

だが口には出さないのだ。
ずっと風の事を考えているよ、君の為に、だなんて。
あくまで涼しい顔で過ごしている。
私も変なところで恰好をつけたがる性格なのだ。
妻も、もうその事は良く判ってくれている。

だが最近ついに変化が起きた。
つい先週の土曜の事である。

二人で風を捕まえる為に道を散歩していたら、
一陣、風がふわっと駆け抜けていった。
その瞬間とても気持ちい感覚ともに、「あっ」と声が出た。

本当に気持ちの良い風だったのだ。

長らく一緒に妻といて、
色んな風に対して妻が「気持ちいい」や、「たまんないね」と評してきたためか、
それを長年横で聞いてきた私もほんの少しだけ、
ふとした瞬間風を気持ち良いと思うようになってきたのだ。
その原理は前述の通り、判らないままなのだが――。

しかし、その時の風は、本当に気持ち良かった。

その時だ、妻が言ったのだ。

「今通ったね」

そうだ。

通ったんだ。

私にも、判った。

良い風が通った。

その時に、不思議に本音が出た。

「実はね、どんな風が良いのか未だに良く判らないんだ。
 君が僕の横で気持ちよさそうにしててもさ、
 この風の何が良いんだろうって思う事が殆どで。
 でも今のはなんか良い風だった、
 なんか判ったんだ、
 信じられないかもしれないけど。」

そう私が言うと妻はうん、と一つだけ頷いて、

「もっと判るようになるともっと楽しいよ。
 でもね、判ってくれて有難う。
 これからもっと一緒に風を浴びられるね。」

と言って私の手を握って揺らした。

人が判り合ったり理解し合ったりする事は難しい事だが、
恐らく、それに越した事は無い。

だがしかし夫婦に関しては、
判り合う速度に関しては無理に急かす必要もないのではないかと思う。
そのうち判ってくれたら良いな、そんなスタンスでいる事も大事ではないだろうか。

だって考えてみて欲しい。
何もかもを直ぐに判り合ってしまったら、
夫婦になって共に過ごす長い時間、あっという間に退屈になりはしないか。

共に過ごす長い時間のとある瞬間、
ぱっ、と閃くように理解してくれた相手の心はきっと、
早い段階で理解してくれた物事よりも嬉しく思うに違いない。

人の気持ちは時にワインの様だ。
すぐに飲むより、時を待った方が美味しくなる事がある。

その日、妻との間に取っておいた古くからのワインが一本、
気持ちの良い音を立てて封を切った。
ワインの匂いは秋入り寸前の風、夏の終わり。

妻の笑顔がまた、
いっそう嬉しそうに輝いてくれた。

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