新しいビットマップ_イメージ_-_コピー

「面白くない」

と千代が言った。

「五十八は最近とんと集まらないじゃないか」

坂のへり、若者のたまり場。
仕事終わりに五十八も良く集っていた。
それが最近めっきり見ない。

千代は五十八より一つ年下、
互いに子供の頃より知っている。

千代はへりに集まっている訳では無かったが、
ふらりと立ち寄って五十八が話していれば腰かける。
なにせ五十八の話は面白い。
キュウリ一本の話題すら言葉巧みに話して聞かせ、
腹を抱えて笑わせる。

その五十八はどこに行ったと言うの。

「ねぇ五十八は?」

へりに集まっている若者達に千代が声をかけた。

「五十八か。今は忙しいんじゃねぇかなぁ」
「忙しい?まだ働いてんのかい?」
「いや、勿論仕事は終わってるだろうよ。
 ほら、畑を見ても姿が無い」
「じゃあ何で忙しいってのよっ」
「そらお前、なぁ?」

調子を合わせてそう振られた男も「ああ」と言う。
「なぁ」だの「あぁ」だの、千代にはさっぱり判らない。

「なんだい、もったいぶってないでさっさと言いな!」
「おおこわ、なんだ、お前知らんのか?」
「なによ」
「女だよ、おんな」
「……うそ、だれ」

いやそれが誰も知らないんだ、なぁ?
そうなんだよ、いつもふらっといなくなる、あぁ。

なぁ、あぁ。
嘘を吐かれてると思える口調、
千代の腕が「なぁ」の襟を強くつかんだ。

「おおおい、本当だ本当!本当に知らないんだって」
「五十八の奴、隠れるようにこそこそしてんだ。
 だからどこの女と会ってるか知らねぇんだよ」
「そんなっ、誰か後をつけたりしてないの?」
「だってなぁ…五十八だからな?」
「そうそう」

五十八だからな。
ああ、五十八だから。

五十八は良く笑う分、他の誰かもよく笑わせる。
笑わせる事しか頭にないのか、
誰かを悪く言うのは滅多な事だった。
とどのつまりが人気者、
そんな五十八の機嫌を損ねたくも無いし、
仲を悪くなんてしたくない。
快く笑える相手とどうして険悪になろうとする?

「こそこそしてるってこたぁ、
 知られちゃ具合が悪い事があんだろ。
 じゃあそっとしておくべ、なぁ」
「あぁ」

また「なぁ」、そして「あぁ」。

くそっ、こいつらてんで役に立ちゃあしない。
怒りで千代が頬を膨らましている頃、
五十八は沼の前でずっこけていた。

「おっと、おお」
「どうした」
「いや、ちょっと足がかくんとな」

五十八は女の名前をまだ知らなかった。
女の方も五十八の名前を知らない、名乗って無いのだ。

名乗り、とはまるで春の桜。
うかうかしてれば時期を逸する。

出会いの初めに名乗るのが礼儀かどうかは知らないが、
下々の者まで名乗りは初手で、という心がどこかにはある。

沼から出たのが悪かったのか、
それとも腰を抜かしてしまったのが悪かったのか、
女と五十八は未だに互いの名前を知らぬままだった。

そう言えば言ってなかったな、
などとふいに言い出せば良いものを、
今さら言うのも、と変な思いがこびりついていた。

互いの名前は知らずとも笑う声が絡み合う、叩く手が高く鳴る。
色の付きかけた茄子、臭い猫の小便、おふくろが直したわらじ。
良い畑はどんな種でも芽吹かせる。
その日も女と五十八、二人でたいそう笑い合った。

天気とは変わるもの、いつかは降るのが雨。
夏の始まりの雨だった。

恐ろしい程の土砂降りが外を独り占めしている。
これはたまらんと誰も彼もが家の中。
いつもは握っている鍬や鎌も今日は握り手が温まらない。

「こりゃすげぇなぁ、今日は駄目だ」

親父殿がそう言ってゴロンと寝そべる家の中、
五十八だけがじっと窓から外を見ていた。

「はる、おおい、はる」

五十八が妹を呼んだ。窓辺だ。
勢いよく降り下す雨の音が滝の如く流れてくる。

「どうした兄ちゃん」
「あのな」

と五十八は雨の音で聞こえるか聞こえないかの声を出した。

「ん?なに?聞こえない」
「いいからお前、もうちょっとこっち来い」
「なによ、これでいい?」
「あのな、兄ちゃんがいつも会いに行ってる女だけどな」
「えっ、うんうん、なに!?」
「声がでかい、しーっ、しー」
「なになに、どうしたの、何教えてくれるの」
「二つ地蔵の先にのっぱらがあるだろ」
「うんうん」
「実はその中にな、沼が一つあってな」
「ぬま?」
「そう、こんくらいの、人が一人入れそうな小さな」
「うんうん、そこでいつも待ち合わせしてるのか?」
「いや、中」
「なか?」
「女がな、沼の中にいるんじゃ」
「     は?にいちゃん何言っとるんだ?」
「……沼の中から女が出てくる、それにいつも会っとる」
「……え?」

五十八は家の戸を見た、窓の外を見た。
右に左に、もう一回右を見て、
窓から頭をひっこめてため息を一つ吐いた。

「……にいちゃん、今のはなし」
「あっ、それにな?」
「え、なに」
「えーと見目の悪い醜女で見るだけで金縛りでな、」
「えっ」
「死んでも忘れてしまう恐ろしさで、
 あ、違った、死んでも忘れ難い恐ろしさで一目見れば悪夢に出てな、」
「死んだら夢も見ないんじゃないかにいちゃん」
「そうだな……まぁ生きてるうちはという事じゃろ」
「……ところで何の話だ?女の話じゃないのか?」
「それでここまで誰かに話せば、
 呪い殺す為に沼ごとやってくる、という話なんじゃが――」

もう一回窓から五十八が顔を出した。
右、左、もう一回右、左、おまけで右をもう一回。
けれども雨しか見えません。

「――どうやら来ないみたいじゃの」
「……兄ちゃん」
「ん?」
「なに……いつもそんな話してるの?」
「え?」
「そういう怖い話……いや、確かに夏は始まったがよ、
 もっと色の良い洒落た話はしてないのか。
 アタシが女が喜びそうな話を教えてやろうか?」
「えー……っと、……うん、教えてくれ、
 大体いつもこういう作り話をしておってな」
「呆れたもんだね!あのな兄ちゃん、女ってのはな、」

窓の外は雨盛り。
出歩く者は影も無し。
犬も猫も雨宿り。

死霊すらも、どこへやら。

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