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こい沼 参
「面白くない」
と千代が言った。
「五十八は最近とんと集まらないじゃないか」
坂のへり、若者のたまり場。
仕事終わりに五十八も良く集っていた。
それが最近めっきり見ない。
千代は五十八より一つ年下、
互いに子供の頃より知っている。
千代はへりに集まっている訳では無かったが、
ふらりと立ち寄って五十八が話していれば腰かける。
なにせ五十八の話は面白い。
キュウリ一本の話題すら言葉巧みに話して聞かせ、
腹を抱えて笑わせる。
その五十八はどこに行ったと言うの。
「ねぇ五十八は?」
へりに集まっている若者達に千代が声をかけた。
「五十八か。今は忙しいんじゃねぇかなぁ」
「忙しい?まだ働いてんのかい?」
「いや、勿論仕事は終わってるだろうよ。
ほら、畑を見ても姿が無い」
「じゃあ何で忙しいってのよっ」
「そらお前、なぁ?」
調子を合わせてそう振られた男も「ああ」と言う。
「なぁ」だの「あぁ」だの、千代にはさっぱり判らない。
「なんだい、もったいぶってないでさっさと言いな!」
「おおこわ、なんだ、お前知らんのか?」
「なによ」
「女だよ、おんな」
「……うそ、だれ」
いやそれが誰も知らないんだ、なぁ?
そうなんだよ、いつもふらっといなくなる、あぁ。
なぁ、あぁ。
嘘を吐かれてると思える口調、
千代の腕が「なぁ」の襟を強くつかんだ。
「おおおい、本当だ本当!本当に知らないんだって」
「五十八の奴、隠れるようにこそこそしてんだ。
だからどこの女と会ってるか知らねぇんだよ」
「そんなっ、誰か後をつけたりしてないの?」
「だってなぁ…五十八だからな?」
「そうそう」
五十八だからな。
ああ、五十八だから。
五十八は良く笑う分、他の誰かもよく笑わせる。
笑わせる事しか頭にないのか、
誰かを悪く言うのは滅多な事だった。
とどのつまりが人気者、
そんな五十八の機嫌を損ねたくも無いし、
仲を悪くなんてしたくない。
快く笑える相手とどうして険悪になろうとする?
「こそこそしてるってこたぁ、
知られちゃ具合が悪い事があんだろ。
じゃあそっとしておくべ、なぁ」
「あぁ」
また「なぁ」、そして「あぁ」。
くそっ、こいつらてんで役に立ちゃあしない。
怒りで千代が頬を膨らましている頃、
五十八は沼の前でずっこけていた。
「おっと、おお」
「どうした」
「いや、ちょっと足がかくんとな」
五十八は女の名前をまだ知らなかった。
女の方も五十八の名前を知らない、名乗って無いのだ。
名乗り、とはまるで春の桜。
うかうかしてれば時期を逸する。
出会いの初めに名乗るのが礼儀かどうかは知らないが、
下々の者まで名乗りは初手で、という心がどこかにはある。
沼から出たのが悪かったのか、
それとも腰を抜かしてしまったのが悪かったのか、
女と五十八は未だに互いの名前を知らぬままだった。
そう言えば言ってなかったな、
などとふいに言い出せば良いものを、
今さら言うのも、と変な思いがこびりついていた。
互いの名前は知らずとも笑う声が絡み合う、叩く手が高く鳴る。
色の付きかけた茄子、臭い猫の小便、おふくろが直したわらじ。
良い畑はどんな種でも芽吹かせる。
その日も女と五十八、二人でたいそう笑い合った。
天気とは変わるもの、いつかは降るのが雨。
夏の始まりの雨だった。
恐ろしい程の土砂降りが外を独り占めしている。
これはたまらんと誰も彼もが家の中。
いつもは握っている鍬や鎌も今日は握り手が温まらない。
「こりゃすげぇなぁ、今日は駄目だ」
親父殿がそう言ってゴロンと寝そべる家の中、
五十八だけがじっと窓から外を見ていた。
「はる、おおい、はる」
五十八が妹を呼んだ。窓辺だ。
勢いよく降り下す雨の音が滝の如く流れてくる。
「どうした兄ちゃん」
「あのな」
と五十八は雨の音で聞こえるか聞こえないかの声を出した。
「ん?なに?聞こえない」
「いいからお前、もうちょっとこっち来い」
「なによ、これでいい?」
「あのな、兄ちゃんがいつも会いに行ってる女だけどな」
「えっ、うんうん、なに!?」
「声がでかい、しーっ、しー」
「なになに、どうしたの、何教えてくれるの」
「二つ地蔵の先にのっぱらがあるだろ」
「うんうん」
「実はその中にな、沼が一つあってな」
「ぬま?」
「そう、こんくらいの、人が一人入れそうな小さな」
「うんうん、そこでいつも待ち合わせしてるのか?」
「いや、中」
「なか?」
「女がな、沼の中にいるんじゃ」
「 は?にいちゃん何言っとるんだ?」
「……沼の中から女が出てくる、それにいつも会っとる」
「……え?」
五十八は家の戸を見た、窓の外を見た。
右に左に、もう一回右を見て、
窓から頭をひっこめてため息を一つ吐いた。
「……にいちゃん、今のはなし」
「あっ、それにな?」
「え、なに」
「えーと見目の悪い醜女で見るだけで金縛りでな、」
「えっ」
「死んでも忘れてしまう恐ろしさで、
あ、違った、死んでも忘れ難い恐ろしさで一目見れば悪夢に出てな、」
「死んだら夢も見ないんじゃないかにいちゃん」
「そうだな……まぁ生きてるうちはという事じゃろ」
「……ところで何の話だ?女の話じゃないのか?」
「それでここまで誰かに話せば、
呪い殺す為に沼ごとやってくる、という話なんじゃが――」
もう一回窓から五十八が顔を出した。
右、左、もう一回右、左、おまけで右をもう一回。
けれども雨しか見えません。
「――どうやら来ないみたいじゃの」
「……兄ちゃん」
「ん?」
「なに……いつもそんな話してるの?」
「え?」
「そういう怖い話……いや、確かに夏は始まったがよ、
もっと色の良い洒落た話はしてないのか。
アタシが女が喜びそうな話を教えてやろうか?」
「えー……っと、……うん、教えてくれ、
大体いつもこういう作り話をしておってな」
「呆れたもんだね!あのな兄ちゃん、女ってのはな、」
窓の外は雨盛り。
出歩く者は影も無し。
犬も猫も雨宿り。
死霊すらも、どこへやら。
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