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こい沼 陸
音に聞こえた恋といえば源氏物語が最古だろうか。
絶世の色男、光源氏が多くの女性と恋を交わし身体を重ねる物語。
他にも書物に残る色恋は様々あるが、
書き記されないからと言って手を抜くのが恋ではない。
それらは『たまたま』記録に残っただけ。
恋は船、人は漕ぎ手。
漕ぎ手達がこの世を去れば、
船も静かに海の底。
『この世』と言う海は広い。
一度沈めばもう誰にも見つかるまいよ。
沼の中ですみれに口を吸われた五十八は次の日、
浮かれるでもなく沈むでもなく、
極めて普段通りの気配で鍬(くわ)を振った。
昨晩の寝床の中で五十八は結局あまり寝付けなかったが、
それが逆に五十八の頭の普段使わない部分を震わせた。
なにせすみれから知らされた悩みの種が一つある。
考える時の癖で五十八は下唇を噛んだ。
すみれがどこぞの女に見つかったらしい。
厄介な事を、どこのどいつか知らんが。
すみれに「五十八にはもう近づくな」と怒鳴りおって。
しかしどこの誰か判らんのが厄介よ。
判ればそいつの目だけを気にすりゃいいが、
誰か判らんから色んな奴の目を気にせにゃいかん。
そう思うと誰も彼もが気になり始める。
誰だ一体、すみれに怒鳴った奴は。
晩にすみれが会いに来た事は飛び上がる程嬉しかったが、
そのままの調子で畑仕事をしてはボロが出る。
すみれに怒鳴った奴がオラの事をチラチラ見てるとして、
ウキウキのオラの姿を見れば、
「あいつら、さては懲りずにまた会ったな」
と勘付くに決まっとる。
だからといってしょんぼりして仕事をするのもいかんじゃろ。
なんせオラの嘘は本当に下手クソなのもいいところ。
そこらの猫すら騙せんというのに人間の女を騙せる道理があろうかい。
女の勘と言うやつは恐ろしいからの。
じゃからこうやって普段通りに浮かれもせず気落ちもせず、
淡々と仕事をするのが一番じゃろうて。
頭の中ではぐるぐると思考をたゆませず、
五十八はただ土を見て鍬を振り続けた。
昼の休みは香六や他の男の誘いを断らず、
木の影に腰を下ろして握り飯をほお張った。
昼休みを終えて田畑に戻った五十八の思考はまだ続く。
鍬を土に突き立てながら頭の中が回り回る、かざぐるまの様。
それにしても解せん事がある。
すみれとオラが会っていた事を知っていて、
何故オラの方には何も言いにこんのじゃ。
わからん、どうにもわからん。
すみれの方にだけ怒鳴って、
なんでオラには注意一つせんのじゃ。
お前、沼のお化けと会っておったろう、
呪い殺されるからもう会うな、とか言うもんじゃないのか。
それともあれか。
オラがすみれと会っている事を言いふらしているのか。
あいつはお化けに憑りつかれておるから近づかん方が良いぞ。
近づけばこっちまで一緒に呪われてしまうぞ、とか。
ふむ、なるほど。こっちの理由なら合点がいくわい。
だとしたらどうかのう、オラはこのまま行けば村八分か。
今日は香六達が昼を一緒にと誘いに来てくれたがそれもいつまでか。
いや、でもあいつら馬鹿で気の良い奴らじゃからずっと仲良く、
いやそうでもないか、腫れ物に触れば病が移ると恐れるもんじゃ。
昨日今日の事でまだ香六達の耳に話が入ってないだけかもしれん。
はぁ、最後はすみれとどこかへ逃げるしかないかのう。
もし人の悩みが汗に溶けるものだったらどんなに楽だったろう。
ただ悩みは人の頭にこびりつく。
汗にもため息ににも溶けずに残る。
五十八の汗は鍬を振るう度に土の上にぽつぽつと落ちるだけだった。
そうして一日が過ぎ、約束の明後日に。
毎日会っていたのが一日開くとは苦しいもので、
五十八はまだかまだかと夜を待った。
晩飯を口にかっこみ寝床で丸まり、
他の家族の寝息が聞こえてきてもまだ目が冴える。
ここで寝てはすみれに会えんのじゃ、
くたばっても寝りゃあせんぞ。
目をギンギンに開く五十八の耳に待ち焦がれた音が届く。
聞こえてきたのは夜の時刻も判らぬ頃合い。
ピチャン、ピチャンと音が鳴る。
どこかで水が躍る音。
五十八の耳はその水の音をすみれの手招きとした。
はやる気持ちで寝床から飛び出しそうになるのだが、
家族がそれでは気付いてしまう。
極めて慎重、極めて忍び、
こそこそと家の外に出て家の裏までぐるりと回った。
「! すみれ」
そこにはちゃんと沼があった。
喜びで顔を彩らせ平手でパンパンと沼を打つ。
「こんばんわ」
沼から出てきたすみれが顔だけだして挨拶をした。
照れている。五十八には判った。
これまで挨拶なんぞした事もなかった。
いつも「よう」や「おう」しか言わなかった。
それが挨拶を言ってくる。
口も吸った仲なのに挨拶ひとつでむず痒さが背中を走る。
「どうもお嬢さん、こんばんわ。こんな夜更けに一人ですかい」
むず痒さがふだん言わない言葉を言わせた。
聞いた方も慣れないので少し笑うとこう返した。
「ここいらに話の面白い色男がいると聞いてわざわざ来たんじゃが、
もしお前さんが知ってれば道案内して欲しい。知ってるかいの?」
「ならば手間が省けた、目の前にいるのがその探し人よ」
「あら、本当に?」
「ははっ、自信が無くなってきたの」
すみれは手招きをした。
夜も遅くに家の裏。
思えば昨日は不用心だった、
こんな逢引きをしている姿を誰かに見られるかもしれん。
なにせ二人とも嬉しくて声をあげたりもしたのだもの。
だから、ちょっと人気のない所まで行こう。
沼が一つと人一人、闇に紛れてこっそり動く。
「なに、お前さんは誰にも言われてないのか」
二人きりの闇の中で五十八は昼間の思考をそのまま語った。
それを聞いたすみれも顎に手をやる。
「どう思う?オラはこのまま噂を広げられると思うんじゃが」
「……それでお前様、村八分になったら私とどこへ逃げる?」
「え?」
「海の見える所に行ってみたいのぉ、見た事が無いんじゃ」
「海か……」
「詩でも詠んでくれ」
「駄目じゃ駄目じゃ、詠むほどの頭も無い」
「えーそんな事は無い、聞きたい」
村八分なんて考えたら普通は気落ちする。
それが今の二人にかかれば惚気る助けの一つ早変わり。
「そろそろ寝る頃合いかの、お前様」
楽しい夜の深みを味わった。
味わったがまだ足りない。
もっとすみれと一緒に居たい。
思わず五十八が、
「いやじゃあ」
と呟くように言うと、
「またお前様は、そんな子供みたいな声出して」
とすみれも苦笑。
思っている事は同じだと五十八に告げると、
「じゃあまた明後日な、また水を鳴らす」
とゆっくり五十八の頬を撫でた。
「いやじゃ」
「いやと言ってもお前様、昼間は働かねばならん」
「うーん……いやじゃ、別れとうない」
「仕方がないの」
すみれは服の上をはだけるとそのまま五十八を抱き込んだ。
「ほれ、良い子はこれで我慢しろ」
すみれの身体は不思議な感じだった。
暖かくも無く、冷たくも無く、
ただ自分の体の一部の様な柔らかい綿に埋もれているようだった。
匂いも無い。
他人の身体が自分の身体のようで、
確かに五十八は不気味さも合わせて感じもした。無理のない事だ。
しかしそれ以上にすみれへの恋慕の強さと、
夜の闇にさらけ出した女の肌が強かった。
夜というは目隠しが上手い。だが手の隙間が多い。
五十八の目を夜ががっちり目隠ししていたが、
肌と肌が触れ合う程の距離になり、視線が隙間をくぐって丸見えに。
「ほくろ」
「ん?」
「ここ、ほくろがある」
胸の上、鎖骨の下。
そこに横並びのほくろが二つあるのを五十八が見つけ、
触れと頼まれても無いのに触ってしまったのは男のさがか。
「ここにも」
五十八の目が今度は首元に走る。
首に三つ、腕に七つ、胸元に六つと頬に二つ。
「気付かなんだ、夜の星にも負けておらんぞ」
「やだそんなに見ないで」
「違う、褒めておる。
女のほくろは美しいもんじゃ、つい数えたくなる」
少し困った顔を見せるとすみれは口を開いた。
生きてる時はこんなにほくろは無かった。
急に増えたのはこの沼に落ちてからで、
正しく言うと、沼で死ぬ時にほくろが増えたのだと。
五十八の方があやされている筈だった。
いつのまにか身体を起こし、ほくろを数え、
すみれの口から「自分でも気味が悪い」と気弱な言葉が零れ、
抱きすくめる役の交代と相成る。
五十八は上をはだけたすみれの肌をそっと抱き寄せ、
右手をすみれの頭にあてがった。
「最初はほくろがどんどん増えるのかと思ったが増えもせん。
私はこのほくろ達がこの沼で死んた者達の忘れ形見だと思うてな。
どこのほくろが誰のものかはしらん。
けどきっとそうだと思えてくるんじゃ、この沼に浸かっておるとな」
「女の勘という奴か?」
「いや、ただ暇な時に考えついたつまらぬ事よ。
すまん、帰さねばならんのに話を聞かせてしもうた」
「かまわんよ」
そういうと五十八はすみれの服を戻した。
そしてすみれの頭を一撫でし夜の中でも判る程の笑顔を作った。
「また明後日にな」
「ああ、よく寝ろ。仕事でキリキリ動けるようにな」
そうして別れた五十八とすみれ。
すみれの言葉に逆らわんようにせにゃいかん。
五十八はそう思ってすとんと眠りに落ちた。
だが朝が来ると五十八の身体は布団から起き上がらない。
目は覚めたものの、片手を上げる事も出来なかった。
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