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不貞の手紙 ②

学年一のモテ女、神田由紀はマメな女だった。
今思えばそれもモテる秘訣の一つだったのだろう。

大人になった私が結婚式を終えて新婚生活に慣れた頃、
私と兄の関係の何もかもを知った神田さんがこう尋ねてきた事がある。
結局、貴方達にとってしりとりとはなんだったのか、と。

説明するのにまずこう始めた。

性欲という大きな建物と食欲と言う大きな建物、
その間に辛うじて人間が入れる程の狭い路地がある。
この世の殆どの人間が左右の建物に目を引かれる中、
誰も入ろうとしない小さくて暗い路地。
それが私達のしりとりだ、と。

他の誰も注目しないからその路地に名前は付いていない。
かといって呼び名にも困らない、
いちいち名前をつける事はしなかった。
だってその路地を通るのは私と兄しか。

その狭い路地に二人で挟まっていると、
道行く皆は私達が何をしているのか全く分からなくなる。
けれど、私と兄はその薄暗い路地の中に何があるか、
私達しか知らないからこそ路地は更に魅力があった。

こんな事もあった。
私が中学生で兄が高校生だった頃、
二人で電車に乗っている時に急に兄がしりとりの続きを始めた。
こんな所で、とも思ったがやぶさかでは無かったので私も続けると、
窓の外を見ながら兄が、

「ここにいるみんな、
 俺達が何をしているか判っていないんだ」

と言った。
その時の兄の瞳と言ったら、
まるで稀代の大悪党のような黒い目をしていて、
あの時の兄は男として変な魅力を体中から噴き出していた。

そう言えば、
高校生時代に決められた一日二回までという制限、
これまで膨大な時間をつぎ込んでいたしりとりの回数を減少させるため、
『しりとりをしない』という時間に徐々に慣れさせる意図で、
最終的には全くしなくなる状態まで遷移させる目論見であったのだけど、
実際それは兄の希望的観測でしかなかった。

一日に二回しかない事で待ち侘びる時間が火に油を注ぐ、
しりとりを繋げる瞬間を更に甘美に昇華する。
たった二回の言葉の往復で得られる感覚の衝撃は更に激しく、
ある時は眩暈がして膝を崩してしまう程だった。

ほとほと困り果てたという顔を見せたのは兄。
増やしても駄目、減らしても駄目。
何か他の事に夢中になれば良いのだけれど、
例えばそれこそ恋愛とか。
しかし恋愛失格の烙印を同級生から承った妹、
即ち私にその解決案は期待できず、
そう、思えば兄は私よりも器用だったのだ。
ちゃんと恋愛をしていたらしいのだから。

一方私は一日二回の制約を受けて更に人生の潤いを感じていた。
お気に入りは特に『る』。
兄から『る』で終わる言葉を貰うと脳髄の奥がキュウウと痺れ、
言葉が詰まっている国語辞典に手を付けず、
ただ本棚に入っているのを眺めるのも好きだった。
開けば一秒で判ってしまう答えには手を付けない、
兄から貰った言葉を頭の中で何度も反芻し、
味が無くなったスルメをひたすら噛み続けるが如く、
時間をかけてしりとりの続きを考えるのが良いのだ。

そうした高校時代にも変革が訪れる。
なんと兄が大学に進学をしてしまうのだ。
進学先は関西の大学。
私達が住んでいたのは関東某所。
当然、もう一緒の屋根の下で暮らす事は出来ない。

だが電波と携帯が逃がさない。
家から兄が居なくなっても私は一日二回、
短いメールを兄に送り続ける生活を始めた。

ろばた。
たんこぶ。
ブロック。
くものいと。
とんずら。
らー油。
ゆずる。
累計。

不思議と送り合う時間帯は規則化し、
朝の七時と夜の九時、この二つの時間がしりとりタイム。
兄は飲み会の最中でも必ず時間になると返事をくれて、
私は逆に大学で友達がいないのではないかと心配をする程だった。

そう、兄の友達の心配などをするようになったのだ。この私が。
それまで(幼い事で恥ずかしい限りだが)兄とのしりとりしか頭に無く、
他の人間関係などそこまで重要視してなかった私が、
兄の交友関係を気にするなんてそれまでは考えられない事だった。

でもしょうがない。
私自身、兄がいよいよ傍から離れ、
兄のいない世界を味わいながら色んな悟りを拾ってしまった。

結局、兄妹であれ、家族であれ、
最初にくっついていた者達は離れてしまって、
そして離れた者達がどこかでくっ付く。
始めにくっ付いていた者達が死ぬまでそのままである事は無い。
どうやらそれが今の世の中らしかった。

マイナスがプラスに変わりプラスがマイナスに変わる。

判らなくもない、確かにその方が面白い。

プラスがプラスのままよりもマイナスに変わる方が面白いし、
マイナスが途中でプラスに変わる方が面白い。

誰が面白いのかって、
そりゃ勿論、神様が、でしょ。

正直私はちっとも面白くない。
お兄ちゃんとしりとりさえ出来れば良いのに、
どうして世の中はこんなに私達の邪魔ばかりするの。

結局私はその後関東の大学に進学した。
関西の大学も受験してみたのだが、
生憎そちらは不合格で、行くのを拒否された。

そこで私が知ったのは学費の高さだ。
兄は関西の国立に行ったのだが私は私立。
自分の大学の授業料に目を通して吐きそうになった。
紙の上で行儀よく整列する数字の桁がとんでもない。
両親は私を大学に通わす為に多大な金を払っている。
それを知った途端、私は自分が恥ずかしくなった。

その日の夜九時、
兄にしりとりの続きを送ると共に、
通話したいとねだり事を言った。
久しぶりだな、どうした、という兄の声が優しくて、
こっちも情けない心のうちが遠慮も無く零れだす。
お兄ちゃん、私もっと受験頑張れば良かった、
お兄ちゃんみたいに国立の大学に入ってたなら、
こんなアホみたいに高い学費じゃなかったのに。
すると兄も、

「俺も結局こっちで下宿してるから、
 家賃とか入れればお前とそんな変わらない。
 父さんと母さんにすまないと思えるうちに勉強しろ。」

なんて言って、
お兄ちゃん、それは私を励ましてくれてるんだよね。
やっぱりお兄ちゃんは、結局お兄ちゃんなんだな。
そんな事を思いながら、そっと電話を切った。

もうしりとりは、終わりにしよう。

大学生まで成長した私の心、精神、
それらにとって兄とのしりとりはまさしく官能であって、
夢中になって脳味噌を溶かせてしまう危ない行為だった。
それを知りつつ続けていたのだが、
大学への進学を期に、
もう、
ここまでにしよう、と。

くっ付いていた者達が離れる世の中なら、
始めた物事もいつか終わる世の中なのだと。

次の日の朝、私は兄にしりとりの続きを送らなかった。

電波でのやりとりはいつも私からだった。
私が送って、兄が返す。
それをまた夜に私が返して、兄が返す。

時間は七時ニ十分。
兄から電話がかかってきた。

「どうした、何かあったのか。」

電話の向こうの兄は少し早口で、私はそれにゆっくり返した。

「ううん、大丈夫、何も無いよ。」

それを聞いた兄はただ、

「そうか」

と言っただけで、

「じゃ、切るよ」

と通話を終わらせた。

月は替わり五月。
まだ入学気分が抜けきらずに、
今度はゴールデンウィークの楽しみに浮かされる頃、母が、

「アンタにだよ」

と封筒の手紙を渡してきた。
私にそんな手紙を寄越す様な知り合いが居たかな、
神田さんが洒落た事でもしてきたのかなと思って差出人を見ると、
兄の名前が手紙の裏にはあった。
封を破いて中身を取り出すと随分と白い部分が多い紙に一行、

いかすみ

と書いてあった。
下手な字だった。

私は内腿を激しく震わせるだけだった。

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