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不貞の手紙 ④(終)

関西と言う土地は兄を離さなかった。
食だろうか、人だろうか、文化だろうか。
何が兄の琴線に触れたのだろう。

兄が大学卒業後の就職も関西地域で済まし、
それを知った時の両親はとても残念そうだった。
大学進学で関西へと手放してしまった息子が、
就職を機に関東へ、
自分達の手の届く範囲に戻ってこなかった事が嫌だったのだろう。

嫌、と幼稚な言葉を使ったが、
結局大人の世界に巡る多くの感情は言葉を豪華にしただけのもの、
一皮剥がしてみれば好きだの嫌だの、
子供の頃に学んだ簡単な言葉が幼い顔を見せるだけ。

私はというと、
残念だったり、安堵だったり。

兄が関東に帰ってこない事は確かに残念なのだけど、
兄と面と向かってしりとりをする日々が復活する事を思うと、
その衝撃に脳味噌が耐えられるのか心配でもあった。

大学特有の長期休みというのは本当に長く、
一か月半ほどの長さをぶち込まれ、
大半の学生達はその自由さを持て余し、
実家に帰省する者が大半を占める塩梅となる。

兄も例外ではなく、
まぁ、兄に帰る気が無くとも両親がせっつくのだ、
帰ってくるんでしょ、帰ってくるんでしょ、と。
両親を満足させる為に新幹線に乗ったといっても過言ではない、
事実両親は兄の帰省に喜び御飯なんかも豪華になっちゃって、
兄は兄で特にやる事も無いようだったが、

「なんで俺、帰ってきたんだろうなぁ」

という顔は一切せず、一家団欒を味わっている様子だった。
まんざらでもない、とはこういう時に使う言葉なのだろう。

兄と私はというと、
面と向かってしりとりをする事は無く、
元気だったか、そっちこそ、なんて兄と妹の定型文を交わすだけ、
そのまま兄が関西に帰るまで対面でしりとりをする事は無く、
ただ一、二度、紙を渡し合うしりとりをしただけだった。

手紙という前時代的な通信手段は幸か不幸か、
私のしりとりによる官能を熟成させ、
兄も同じようなものだろう、
今更顔を突き合わせてしりとりなんぞしたらどうなってしまうか。
私達は『兄妹』という世間の枠組みを崩壊させない為にも、
もう口頭でしりとりをする訳にはいかなかった。

そんな経緯も積み上げられたわけで、
兄が関西に留まってくれるのは幸か不幸か。
しかし大学生活で世間にいよいよ馴染んできた手前、
これはこれで良かったのだと冷静に思いもした。

あとは尾崎君。
彼は随分と私を『世間』に馴染ませてくれた張本人。
おかげで兄妹間でのしりとりの異常性を自覚するに至った。

してみたのだ、尾崎君と。
しりとりを、何度も。

けれど全く心が震えない。

二人で散歩をしている時、
一緒に料理を作っている時、
ゲームを一緒にしている時、
交尾をしている時は流石に続けるのが難しかったけど、
手を変え品を変え試行錯誤の末、
至った結論は『兄とじゃなきゃやっぱり駄目』という事だった。

あと、しりとりをしなくても死なないという事も判った。

きっとこれを聞いた大半の人が馬鹿にすると思う。
しりとりで死んだというケースを聞いた事も無いし、
しりとりで生命を維持しているという人もこの世には居ない、
しりとりはあくまで幼稚な娯楽の一種に過ぎなくて、
大人になってしりとりを好む人間なんて聞いた事が無い。

そんな事は判っているのだけれど、
世の中の万物に例外はあるもので、
私と兄がその例外であり、
私と兄以外のこの世の人間はその事をきっと知らない。

だからこんなに時間がかかったとも言える。
私達はしりとりの媒体を手紙に移した事でようやく、
この狭い路地裏の官能から抜け出せるかも知れなかった。

「お兄ちゃん、婚約するって。
 挨拶に今度帰ってくるよ。」

母が私にそう話したのは、
私が関東に就職する事になって二年目の事だった。
大学も平穏無事に卒業し、
尾崎君も私に愛想を尽かす事無く、
そして兄との手紙のやりとりは月に二度となっていた。

帰ってきた兄はどことなく、顔の皺が増えたようだった。
とはいってもまだ二十代の半ば、
世間から言わせればまだまだひよっ子なのだろう。
しかし妹の目には見慣れない皺が幾つか見受けられ、
それは妹の私が知らない『人生』を味わった証拠、
同じ血を分けた相手が徐々に遠ざかっていくようで、
このまま隔たれていく関係の影にも見えて、
寂しくない訳がなかった。

「こんな兄ですが、宜しくお願いします」

兄の恋愛にはそこまで興味は無かった。
関東と関西で離れたせいもあったが、
妹が兄の恋愛に口を出すなんて馬鹿な話じゃないか。
私が兄の恋人に慣れる訳も無いのに、
兄の恋人に色々とケチを付けたりする道理も無い、
だったら心を騒がせない為にも無関心でいる事が一番だと悟った上で、
私は兄に恋愛事情を伺った事は一度も無かった。

大学在籍中に、二人、彼女を変えたらしいが。
家に連れてきた女性は大学生活で最後に付き合った相手らしく、
卒業したら結婚しようという話をしていた事をその場で聞いた。

「いやぁ、この子にもね?
 大学時代から付き合ってる人が居るんだけど、
 こういう風になるのかしらねぇ?」

と母が言った。私の事だ。
さぁ、どうだろうね。
返事は渇いた口調のものにして、
私はその場を手堅く捌いた。

その後、兄は入籍し、結婚式を挙げた。
結婚式の準備が始る直前に兄から届いた手紙は、

『コンビニ』。

私の『ミジンコ』への返事だった。

きっと、忙しいだろう。
大学卒業後、早々に結婚して式まで挙げた友達も居るから、
結婚式の準備の忙しさは承知している。
こんな大変な時に返事を返しても迷惑だろう。

そもそも結婚するんだし。

もう終わりにすべきなんじゃないの。

大人になってみて良く判る。
人間にはそれぞれの感覚や価値観があって、
時にそれは他人に理解できない場合もある、
私と兄にとってしりとりがまさにそれで、
他人が理解できないのを良い事に、
私達はそれぞれに恋人が出来ても、
大人になってもこの官能を楽しみ合ってた。

だけど倫理と言う観念も手に入れた私は、
兄からの返事が届く度に、
尾崎君に申し訳ない気がしていた。
そういう気分になる事こそ不貞の証であり、
いっそ、兄からの返事がここで途切れれば良いのに、
と思った事すらある。

そしていよいよ兄が結婚する段取りになって、
まだ、兄からの返事は来てしまっていて、
私は喜びと同時に抱えきれない程の背徳感を背負い、
この長年続いた兄妹のしりとりに幕を引く事を決めた。

兄へ渡す祝儀袋を用意し、
皺の入ってない福沢諭吉の横長ブロマイドを数枚先に入れ、
細長い紙を一枚と、筆ペンを用意した。


お兄ちゃん、今までありがとう。
そしてごめん、
私もう、裏切るね。
結婚してまで続けちゃいけない事なんだよこれは。
お兄ちゃんに大切な人が出来たように、
私にも尾崎君がいるから、
私もうこれ以上、
平気な顔してお兄ちゃんの手紙を開けないもん。
昔は私の方がしりとりを続けようって駄々をこねた事もあったけど、
今思い返せばあの時にちゃんと辞めとけば良かったね。
このまま続けてもきっと誰も私達の悦びには気付かないだろうけど、
それでも私達が判ってるでしょ。
心をちゃんと持っている私達が。
だからもう、
ここまでにしよう、お兄ちゃん。
ごめん。


取った筆ペンでひとこと、大きく

『にんじん』

と書き、
福沢諭吉達が混雑している中袋に幕切れの知らせを封じた。

兄の結婚式は良い物だった。
兄と結婚してくれた新婦も綺麗で、
皆笑っていて、良い人間関係に恵まれたのだとも判り、
妹としてはこれ以上ない安堵を覚えた。

全て終わり、
我が母校のモテ女、神田さんに全てを報告すると、

「よく頑張った」

と言われて、恐らく人生で一番長いため息が出た。
涙は出なかった。
ただ、神様にずっと責められていた罪をようやく降ろしたようで、
両肩にのしかかっていた得体の知れない重い何かがコロン、
と転げ落ちた心持だった。

これでいい、これでいいんだ。
ありがとうお兄ちゃん、さよならしりとり。

それから数年、
私も尾崎君と結婚式を挙げる事になり、
兄夫婦が味わった苦労を体験する事になる。

楽しくもあったが大変だった諸々の事をやりこなし、
二人とも疲労困憊の結婚式もなんとか終わらせ、
あー、もう二度と結婚式なんてやりたくないね、
なんて軽口をたたき合いながら後始末をしていた。

「あれ、」
「ん?どうしたの」
「義兄さんからの祝儀袋、なんか紙が……お、」
「え?」
「……りんご」
「えっ……え?」

椅子の背もたれに体重を預ける尾崎君に駆け寄ると、
手にした紙に達筆な文字で、「りんご」、と平仮名があった。

「……これ、送れって事なのかな?」
「………」
「ねぇ?」
「あ、はは……お兄ちゃん、りんご好きだからなー、」
「あーそうなんだね知らなかった、じゃあ送らなきゃ」
「も、もー、祝儀袋にこんなの入れるなんて、
 お兄ちゃん昔からこういう変な所あるんだよね」
「えー楽しい義兄さんじゃん、ちょっと疲れ吹っ飛んだよ」
「えーほんとにー?」
「本当本当、今度一緒に飲んでみたいなー」
「別に面白くもなんともないよー、普通の人だからー」

と、
精一杯の平静を装って、
「いかすみ」の時と同じように何気ない言葉達で嘘を固めた。

「ごりら。」
「えっ」
「いや、りんご、とくれば、ごりら、らっぱ、かなーって。
 ほら、しりとりするならさ。王道でしょ?
 そう言えば昔はよく俺達もしりとりしたねー。」
「そ、そうかな、あはは」

尾崎君。違うの。
りんごの次はごまなの。
ごまの次はマダガスカル。
マダガスカルの次はルーマニア。
ルーマニアの次は飴細工。
飴細工の次は楠。
楠の次はすずめ。
すずめの次はメジロ。
そうやって続けて行って、
おかゆ、の時に、
あのお姉さんが帰っちゃったの。

「!? めぐみどうしたっ」

私の両足がぺたんと崩れた。
横に立っていた新婚の妻が急にへたりこんだのだ、
尾崎君の焦り方は凄かった。

ごめんごめん、ちょっと疲れがたまっていたのかな、大丈夫だよ。
そう言って尾崎君を安心させる事を選んだ。
決して言えなかった、
幼少期の記憶に頭を掻きまわされて腰が抜けたなんて。

あの日の官能を思い出して腰が抜けたなんて。


大人になった私が結婚式を終えて新婚生活に慣れた頃、
私と兄の関係の何もかもを知った神田さんがこう尋ねてきた事がある。
結局、貴方達にとってしりとりとはなんだったのか、と。

説明するのにまずこう始めた。

性欲という大きな建物と食欲と言う大きな建物、
その間に辛うじて人間が入れる程の狭い路地がある。
この世の殆どの人間が左右の建物に目を引かれる中、
誰も入ろうとしない小さくて暗い路地。
それが私達のしりとりだ、と。

神田さんは、

「ふーん、
 でも今は二人ともそれぞれ家庭を持って、
 しりとりもしてなくて、明るい所に出てるじゃん。
 結局人間て生き物は社会に合わせて変化するんだよ」

と言い、
私はそうだねアハハと話を合わせた。

二回目のしりとりが始まった事は、神田さんは知らない。


私が『にんじん』で終わらせた筈のこの官能、
でも兄はずっとあの狭い路地裏に居たままで、
先に抜け出た私の腕を暗がりから再び掴んできた。

私はどうしたかって。
暗がりからこっちを見る兄の手を振り払う事もせず、
力一杯捕まれるまま路地裏に引き込まれ、
その際抵抗なんて一切しなかった。
私、実はそういう強引なのも好きなの。

結局兄と私はこの世の誰にも気付かれず、

今もこの狭い路地の中、

不貞の手紙を交換し合っている。

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