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鯖のままごと 前編

私は鯖です。
鯖はサバと読みます。
魚の一種です。

私の知り合いに同じ言葉を言ったならきっと、
「いやお前は人間だろ」とか、
「エラ呼吸も出来ない分際で」と言われると思いますし、
事実私はれっきとした肺呼吸、哺乳類の人間なのですが、
しかし、私は鯖なんです。

例えば泳げない人間を指す言葉としてカナヅチってあるじゃないですか。
その人は別に体が金属で出来ている訳でも無いのにカナヅチと呼ばれる訳ですよね。
私の『鯖』もそう言う言葉遊びです。

しかし、
じゃあ一体『鯖』って何の事だろうって思いますよね。
それに関しては少々外聞を憚る話を聞いて貰わなければいけません。

実は私、不倫をしています。

お相手は務めている会社の上司で部長役職の方。
会社の帰りに短い時間を押し込むようにホテルへ行ったり、
通勤で同じ電車の路線を使うのでそこで体を触られたり、
そんな部長は女性の体を触るのが御好きなのか基本私はされるがまま、
関係を始めた当初に私も何かした方が良いのかもと思い手を出そうとしたら、

「君は楽してて、僕に全て任せてくれれば良い」

と言われ、
毎度部長の前で服を脱ぐと私はマグロになってしまうのです。

こんな事を話してしまって、
どこかから話が漏れて噂になって、
関係がバレでもすれば相手の妻から慰謝料を請求されるぞ、
と心配して下さる方もいらっしゃるでしょうが、
ご心配なく、これは全て私の妄想なので。

妄想です。
部長との不倫は、全て妄想。
会社の帰りにホテルで忙しいセックスをするのも、
通勤電車の中で痴漢まがいの行為をされるのも、全て妄想です、私の。

全ては妄想なので、
恥ずかしい事に自分が気持ち良くなる事しか判らないんです。
これまでの人生で男性と濃密に接触する機会は碌にありませんでした。
だからいつも(妄想の中の)部長は「僕に任せて」って言ってくれて、
私はされるがままのマグロ女。
だって(妄想の)部長に何かしてあげようとしても何をすれば正解なのか判らないし、
それが気持ち良くなってもらえる事かも分からないし、
だからそんな怖い事は出来なくて、
いつも部長に任せっきりでマグロになってしまうんですが、
私知ってるんです。
マグロはとっても高価な魚だって。

情事において『マグロ』が許されるような女性は、
やはり女性としての価値が高い人間なのでしょう、きっと。
男性が頑張ってあれこれ動いて、喜ばせて喜ばせて、
それで女性側が何もしなくても良しとされる。
それはそうさせる程、その女性としての価値が高いという事じゃありませんか。

その点、私なんて、
妄想の中でしかマグロになる事を許されなくて、
きっと現実の私はマグロどころか、鯖程度の雑魚なんです。

好きな寿司ネタを誰かに聞いた時に色々なネタが挙がる中、
ふと「鯖なんてどうですか」と尋ねたら「ああそれもあったね」位にあしらわれる、
私はそれ位の価値しか、きっと無い女なんです。

平日の毎朝、
(自分なりに)精一杯の身綺麗を整えて部屋の外に出て出社するも、
うちの会社は(私から見て)美人な方がまぁ多い。
鯖の私から見れば鯛にカンパチ、鮪にカジキ、まるでここは竜宮城。
そんな宮中、妄想の中でしかマグロになれない哀れな鯖は、
ひっそりと業務に取り掛かる訳です。
そうやって目立たないように泳ぐ鯖の私の肩身の狭さと言ったらありません。

鯖はそうやって竜宮城で日々細々と暮らしていたのですが、
そんな日々を送る中、鯖の耳に噂が一つ入り込んできました。

なにやらとんでもない可愛い女性がこの会社に入ったとか。
それは何処の部署なの?
それが聞いて驚け、清掃員の女の子なんだよ。
というのが盗み聞きの一部始終。

そこまで聞いたら見たくなるのが人情というもの。
休み時間やふとした合間にトイレを求めて会社の中を上から下へ、
普段は行かないような場所のトイレまで探索しに普段よりも足取りが軽くなります。
そんな中あるトイレに入ろうとすると、

「えっあの子じゃない」
「あーあれがあの子か、へー」

そんな事を喋くる女子二人組がトイレから出てきたので突入してみれば、
まぁとんでもなく可愛い子がいるじゃありませんか。
見慣れた清掃員の制服を着こなした若い女の子がトイレの一角からよいしょと出てきて、
それを探していた私はジロジロと見るように眼差しを飛ばしていたので目が合う羽目に。
あの、ごめんなさい。別に喧嘩を売ってる訳では無いんです。
ただここいらで、どえりゃあ別嬪さんがいるって聞いてな、
それで一目拝もうとしただけなんじゃよ、本当なんじゃよ許してたもれ。

私の脳内は目当ての相手との突然の遭遇に多少混乱し、
言葉も「あ、え、」と母音しか奏でる事が出来なかったのですが、
当の彼女は優しいものでした。

「あっ、すみませんこちらでどうぞー」

と掃除の終わった場所へ手招きしてくれる笑顔は夏の太陽、肌の白さは冬の雪。
鯛も鮪も目じゃないぜ、ようこそ竜宮城へ乙姫様。

「あっハイ」

私はと言えばそのような乾いた返事をするのが精一杯で、
トイレ巡りで散々出した尿を更に振り絞るかのように便座に座り、

「へぇ、あんな子も世の中にはいるんだ」

と感心しながらただトイレットペーパーを必要もなくカラカラと回すのでした。

その日の業務も終わり、帰りの電車の中、
いつもならつり革に掴まり、頭の中で部長に下半身を撫で繰り回される所を、
本日は何故だかあのトイレの乙姫様の顔が頭に浮かんできました。

あんなに顔が良ければ他にもきっと仕事のクチはあったろうに。
それに加えてあの笑顔、きっと明るい性格で鬼に金棒、
別にうちの会社から出て行けという訳じゃないのだけれど、
もっと別の仕事に転職とか、そういう選択肢は世の中にはあるのよ御嬢さん。

そんな他人への心配とはまた別に、
自分がもしあんな顔だったらと頭に妄想が過ります。

『うらやむ』と『欲しがる』は表裏一体。

妄想が知らぬ間に走り出し、
つり革に掴まる私の後ろから何時もの様に部長の手が伸び、
尻へ腰へと上がっていく手がずいずい伸びて、
背中を伝って最後に添えられた私の顔は、あの乙姫の顔とすり替わっていました。

乙姫の顔の私が部長とそのまま演じる痴態を私は第三者の視点で、
まるでテレビを見るように妄想し続けました。
成る程、顔が良いとこんな風に見えるのね。
やらしさが増して一層興奮するのも仕方ない。

それから電車を降りてアスファルトの上を歩いていても妄想は途切れません。
私の脳が余程お気に召したらしい。
現実では電車を降りたんですけど、
妄想の中では未だ車中でイチャコラお忙しいご様子。

もう現実ではポケットから家の鍵を取り出して靴も脱いだというのにまだ終わらない。
いよいよ部長は妄想の中で大胆にもパンツの中まで手を入れてきて、
現実の私はちょっと手を洗おうと洗面台のライトに手をかけました。

そして明るさに照らされてしまったのは、私の鯖顔。

妄想の中の部長も乙姫顔の私も電車もなにもかも、
全部一気に消し飛んで、残ったのは会社帰りの疲れたOLの顔が一つ、鏡に映るだけ。

しかも鯖、

乙姫じゃない。

その日私は妄想の続きを思い浮かべるでもなく、
冷たい布団の中で一人静かに目を閉じるだけでした。

―――――――――――――――――――――
続きます。

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