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今日の五十八は腕の筋の締りが違う。
見ても惚れ惚れするような動きだ。
通りすがる村の衆もそうやって口を揃える。

かけられる褒め言葉が気持ちいい。
昼休みで畑仕事の男達が木陰に身を寄せるなか、
五十八は昂ぶりが抑えられずに沼へと走った。

二つ地蔵を一瞥も無し、
慣れたものよと丈の高くなったのっぱらに飛び込んだが、
いつも五十八を迎えた沼が無い。

別にしるしがある訳では無かった。
沼こそがしるしだった。

もう少し右だったか。
いや、こちらじゃないな、左だったか。
手前か?奥か?
ええい、確かここらへんだったんだ、それは違いない。

草を掻き分け沼を探すも水滴一つ見つからない。
ただ、汗を顎がつたう。

夏が汗を促してるのか、
焦りが汗を絞らせたのか。

田畑の方から声が聞こえだす。
もう皆が仕事に戻り出すのだ。
五十八は眉間に皺を寄せたままのっぱらを後にし、
いささか丸くなった背中で戻って来た姿を千代は見ていた。

仕事の終わりが夕暮れの始まり。
好きな場所へと皆の足が鳴り、
ぺちゃり、くちゃりと声がする。

今日の五十八の足音は聞き慣れないぞ、
そう草木が思ったかは定かならぬが、
夏の風にこれでもかと騒いだ。

誰も「焦っているか?」と問わないが、
極めて平静を装う五十八。
しかし焦りが蓋から溢れ出て体の各所を侵す。
忍び足のような、急ぎ足のような。
不気味な足音を草木に聞かせ五十八は沼がある筈の場所へと急いだ。

「にいちゃん、遅い」

妹にそう言わせた五十八の顔は酷かった。
時刻は夜、釜の飯は食い時を通り越してやや冷えた。

時間は五十八に残酷だった。
時間と言うものは万人万物に等しく流れる。
だが『気持ち』はそれに偏りを仕掛ける。
殊更『焦り』というものは時間を早く消化させ、
沼を探した五十八も例外では無かった。

ええい、くそっ、なんでだ、なんで無い!?
ここにある筈だ、ここで待ってる筈だ、
すみれは確かにそう言った、ここで待つと、
そう言った!!

ちょっと場所がずれているだけかもしれん。
そう思って五十八はすみれ、おいすみれ、と呼び声を放った。
すみれ、おい、すみれ。どこにおる。
きたぞ、オラだ、五十八だ。
すみれ、おいすみれ、どこだ、どこにおる。

時間は気持ちに応えるのか、
それとも気持ちが時間を加速させたか。

いつもはゆっくり来てくれる夕暮れが、
今日はやけに駆け足だった。

恨めしい。
なんでそんなに急いで暗くなる。
いつもはもっとノロマじゃろうに。
今日に限ってどうしてそんなに急いてくれる。

茜色が黒に負けていくのを呪いながら五十八は家に帰るしかなかった。
これ以上は、家の者に心配をかける事になる。

「一体どこ行ってたのっ、あほうが」

しかしすでに手遅れだったようで、
妹が仁王立ちで戸の前に立っていた。

「ん、兄ちゃん、女に会いに行ってたんじゃないのか?」
「え?」
「酷い顔をしておる」
「ああ、ちょっと疲れたわ」
「……どうした?」
「いや、別に話す程の事はしとらん。
 いいから、遅くなってすまんかった」

なにを馬鹿な事をいうておる、
ここ最近はずっと軽い足取りで敷居を跨ぎ、
気持ち悪い程のニッコニコで口の端を吊り上げておったくせに、
それがまるで大切なものを根こそぎ盗まれたような顔をして、
それで話す程の事はしとらんだと、どの口がのたまう!?

妹が思わず横を通り過ぎる兄の肩に手をかけたが、
まるでぬかるんだ水溜まりのようにズルリと手が肩を滑った。

こんな肩だったか
夏の泡のような肩だったか

兄には何度も肩車をして貰った
父ほどの高さは無かったが
兄はいつも笑いながら肩車した
兄の肩が好きだった

もう肩車をせがむには恥を覚える年だけど
それでも兄の肩に指を伸ばすと肩車を思い出す
一度たりとも落ちた事の無い肩を思い出す

がっしりとした肩で
兄の頼もしさが太ももを伝って暖かかった

それが兄の肩だったのに

その肩はどこへいったの

妹は肩から落ちた手を再び乗せようとはしなかった。
知るのを恐れたからだ。
自分の知らない感触の肩を指が覚えてしまうのが怖かった。

「どうしたの、あんたぁ」

約束をしていた女が見つからずとも、
家の者は飯を作っていた。
それぞれが全く違う世界かと思う程、
飯は美味しく出来ていた。

「うん、美味い」

五十八の舌は呆けていた。
美味いか不味いかどうでもいいだろ、
腹に入れば良いだろう。
そんな事を言いそうな位に、五十八は味の仔細が判らない。

ただ折角作ってくれた飯にうまいと言わずは恥知らず。
うまい、と礼を持って言葉にすれば作り手は喜ぶ事も、
五十八は十二分に弁えている。

「そんなにぼそぼそ喰って、味がわかるんかい?」
「うん、美味い。かあちゃんありがとう」
「――変な子っ」

食卓を囲み、
家の者は大体が悟っていた。

五十八の奴、女と何かあったな。
何せここはド田舎の村、
酒を飲みに行くにもちょいと時間がかかってしまう。
気持ちの上がり下がりは余程の事よ、
下痢便がすこぶる酷かったか、
さもなくば色恋でひと悶着あったか。

それを知る親父殿は淡々と飯を喰ったし、
他の兄弟達も何も言わなかった。

寝床に入るのも静かなもので、
兄弟達は死に際の老人の真似事かと思った。
じゃあ自分達もと静かに寝床に入り、
今晩は一家でかくれんぼでもしてるのかと冗談を思う程。
一人、また一人と寝息を立て始めた。

しかし五十八だけは目が冴えている。
待ってると言ったのに、
なんで全く見当たらなかったのか、
否、いつもの場所で待っていなかったのかが判らない。

耐えがたい。
夜のまっくらやみ、
一人で味わうには、この苦しみは耐えがたい。

なんじゃ、
何がいけなかった。

すみれという名前がいけんかったんか。
お前が言う通り、気障が過ぎたんか。
それならそう言ってくれたら。

そもそもオラの事が邪魔だったんか。
香六は同じ所に居るのが待ってる証拠など言ったが、
実は動くのが疲れるからじっとしていただけなんか。
それで、ついに堪忍袋の緒が切れたんか。
それほどまでに邪魔だったか、
来て欲しくなかったか。

なら、どうしてあんなに笑った。

どうしてあんなに手を叩いた。

どうしてすみれと呼んだ時、
悪くない、なんて言った。

どうして待っておらなんだ、すみれ。

五十八がすみれに一目惚れというのは嘘ではない。
五十八は女のとろんとした目が好きだった。
逆に、ぱっちり開いて爛と光り出しそうなのは苦手だった。

好みの女がどんなものかと知りたがるのは男なら誰しもするところ、
あれやこれやと話を振って、
それで笑った時には、してやったり。

笑うというのは同意である。
お前の言ってる事が面白いと感じるよ、
その話が私も良いと思うよ、という事である。

一回笑えばしてやったり、
二回笑えばもっとと張り切り、
三回笑えばもう夢中。

それに、
女の笑い顔は美しい。
惚れた相手なら尚の事よ。

笑った仕草が五十八の恋慕を花開かせた。

その枝がボキリと折れた。

土に落ちた花を見て、
五十八、夜の闇に微動だにせず苦しむ。

胃の中は煉獄で焼かれているかのようだ。
ごうん、ごうんと炎でじっくり、中までしっかり丸コゲに。

どうにかこの苦しみが去ってくれんか。
そう思いながら丸まって五十八が夜を過ごしていたら、
家の外で何やら幽かな音が聞こえる。

苦しんでいる最中じゃ、
何を気に留める余裕も無かったが、
その音が五十八の耳に、静かに真っ直ぐ届いてくる。

ぴちゃり、ぴちゃ、と。

くっ、と首を持ち上げた五十八は、
音を一つも立てぬようにと静かに寝床を抜け出し、
戸から抜けて外へ出た。

右か、左か。

すると右の方で、家の角に何かが見える。
目を凝らしてみようとすると、それがつつつ、と動くではないか。
家の裏手に引っ込む影に、待て、いや待てと五十八が追いすがる。
回り込んだ裏手には、小さな水溜まり、
いや、沼が一つ、水面を幽かに揺らしていた。

すみれ

と呼びたいが、
どうにも呼べない。
口は開くが、喉が震えない。言霊が音にならない。

パンパンと水面を二回叩いた。

すると、中から女がゆっくり顔を出した。
すみれだった。

「あのな」

夜は闇、
瞳の光は月のおこぼれ。
すみれの瞳に月と水。

「水面(みなも)を叩いてくれるか、
 心配でしょうがなかった。
 ……立ち去られたらどうしようかと思っておった」
「そんな、ある筈がない」
「ふふ、そうか……どうした、そんな顔して。
 すみれじゃよ。お前さんが名前を付けてくれた」

それを聞いた五十八の口から「はあっ」と安堵の息が漏れる。
もしかしたらすみれと言う名が気に喰わんかったのでは。
ずっとそればかりが気がかりだった。

「仕事終わりに会いに行ったら、どこにも見つからんで」
「うん、すまんかった」
「どうした、待ってると言ったのに、びっくりした」
「嘘を吐いてしもうたな」
「嘘だなんて。事情があるかもと思ったが、
 具体的な事情が思い浮かばんで、
 オラ、さっきまで閻魔様に胃を絞られてるようじゃったわい」
「それはすまん事をした、本当にすまん」
「どうした、一体」
「いや、実は一人、娘に見つかって」
「なにっ……誰だ?」
「誰かはしらん。
 しらんが、今朝はなしてるのを丸々聞かれとったみたいで、」
「えっ!……本当か」
「ああ、それでもう五十八に近づくなと怒鳴られた、
 殺されるかと思うて股がすくんだ」
「えぇ…そんな事が」
「死んでおるのにな」
「うーん……は?」
「笑うところじゃよ」
「……ふふっ」
「はは」
「はっ、けど、うーんおかしな奴よ、
 そこまでしたならオラの方にも何か言って良い筈だが」
「昼間に誰も何も言いに来なかったか?」
「うん」
「そうか……あのな」
「うん」
「謝らねばならん事がある」
「オラにか」
「ああ」
「オラが悲しむ事か」
「かもな」
「聞きたくない」
「そうかもな」
「……聞かんとダメか」
「……お前の生気を吸っていた。
 この身体になって色んなものから生気をすってきた。
 草木や鳥や、ちょびっとずつ貰ってな。
 吸い取るのが自分でも判っておった。
 それは五十八、お前も例外じゃない」
「ああ、判っておったよ」
「……判っておっても会いに来たか」
「死ぬわけでもなかったから。
 惚れた女の笑い顔を見る欲が勝った」
「ほんとにお前……それでな、
 話を聞いて笑えば笑う程、吸うのが多くなった。
 気付いたのよ、心が通えば通う程、吸うのが激しくなる。
 ほれ、昔話もあるじゃろ。
 恋慕の思いが強い生霊ほど、相手の男を追い回す。それと一緒」
「そうだったか……気付かんかった」
「それでな、今晩限りにしよう」
「えっ」
「すみれと言う名も貰った。正直私には過ぎたものじゃが。
 餞別には十分すぎる。これ以上会うとお前がどうなるか判らん。
 今晩までにしよう、五十八、お前に会えてな、ほんとうに」
「やじゃ 嫌じゃ嫌じゃ」

そう言うて五十八は沼の中に手を突っ込むと、
すみれの片手を掴み上げた。

「嫌じゃ、行くな」
「嫌って……あのな五十八、私はもう死んでおる」
「そんなのとうに知っとる」
「それに夫婦にもなれん」
「やってみなけりゃ判らんっ」
「子供も出来んだろう」
「子供が欲しくてお前を好いとるんじゃないっ」
「――いつかお前を殺すかもしれん」
「ん~~っ、どこかへ行くと言うなら今殺せ、オラを殺せっ。
 それが嫌ならずっとこの村にいろ、それでいつか殺せっ」
「んもぅ、お前さては寝ぼけておるな?」
「しらふじゃっ」
「しらふなら……はぁ、姉様達が言ってた言葉が今判った、
 男と言うのは馬鹿なもんじゃ、
 本当に馬鹿なもんじゃ。
 お前を見ていて今ようやく判ったぞ」
「やじゃあ……馬鹿でもいい、どこにも行くな……」
「はぁ……」

水音が鳴った。
すみれが水の中の片手も上に出し、
もう片方の手を掴んでいる五十八の手を優しく外した。
案外手はポロリと取れた。

自由になった両手は五十八に首に回った、
顔がぐい、と引き寄せられた。

「私も馬鹿になろう」

ゆっくりとしたものだった。
すみれの両手がくくく、と五十八の顔を沼の中に引き寄せ、
五十八もそのまま抗う事無く近づいた。
すみれの頭が先に沼に沈むと、
五十八も顔、引いては腹までつかった。

覗き込むようだった。
ここに宝物はあるか?
そう言いながら覗き込んでるような恰好だった。

「   ぷはっ」

息をギリギリまで我慢した五十八が勢いよく身体を引き抜くと、
すみれもゆっくりと顔を出した。

「そんなに我慢してたのか、すけべえめ」
「こんな事されたら、そりゃ頑張るわい!」
「ははっ、おっと、夜だで静かにせんとな……」

もう頭の上からびしょびしょ。
こいつ、これからどうやって家の中に戻るんじゃろ。
そう思うと思わずすみれは吹き出してしまった。

「明後日の夜」
「ん?」
「明後日の夜、また来る」
「明後日か?」
「ああ、毎日会っては殺してしまう」
「            そうか」
「だからな、明後日」
「判った、明後日な」

女の顔は映える、化粧で更に映える。
今宵の化粧は月化粧。

「またな」

と言ってすみれの潜った沼がするすると夜に溶けて行った。

女に引きずり込まれるなら沼の中も悪くない。

そんな馬鹿な事を、
五十八は思っていた。

上着には水がしたたる。
今宵は一体どうするつもりか。

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