新しいビットマップ_イメージ_-_コピー

不貞の手紙 ③

人生を生きるにあたって感慨深かったのは知見が増える事だ。

よくRPGのゲームでは踏破した箇所が地図で増えていくが、
人生も、いや、ゲームが人生を模倣したと言う方が自然か、
年を重ねて色んな世界に触れる度に人生の地図が確かに増えた。

まだ小さい地図だった頃はしりとりの路地が余りにも大きく、
他の部分に目を向けようとしても否応なく視界に入って来ていたが、
大学進学を機に急速な広がりを見せた地図の中、
性欲と食欲の間の大きく細い路地はその存在感を狭めるかと思った。

だが、いかすみ。

恋愛をしているからと一度は私とのしりとりを拒んだ兄が、
まるで「逃がさないぞ」と穴倉からぎゅっと手を掴んできた。

薄暗い穴倉だ、しりとりという穴倉。
私と兄が長年籠っていただけあって異様な匂いが立ち込める。
もうとっくに兄の方は体半分くらい出ていたものだと思ったが、
いざ私が外に身体を乗り出してみると、
『外』に出れないでいたのは兄の方だったと判った。

「欲しいのかしら。」

母だった。
私が開けた封筒、出てきた紙を後ろから覗き込み、
それを見た安直な誤解だろう、いかすみ、とだけ書いてあるから、
親心に「それが食べたいのかな」なんて思ったに違いない。

でも違うの、お母さん。

「かなぁ、変なものたまに食べたがるんだから、お兄ちゃん」

さも何も知らぬかのように、
全てを知らぬ妹のように。
声が上ずらないか心配だったが、
やってみると思いの外私は役者だった。

「本当、変な事ばっかりするんだからお兄ちゃん、
 こんな事わざわざ手紙で書いてさぁ、ははは」

頭の中では『いかすみ』の四文字が暴れて襲う、
明日の予定も、講義のプログラムも、見たいドラマも、
何もかもいかすみが踏んづけて殺し、

さぁ、
『み』の続きに酔え、

悦べ!

と私の脳味噌を好き放題にする。

私は少しよろめいて立ち上がり、
部屋に入るとベッドに倒れ込み、
たった平仮名四文字が書かれた紙を恋人の形見のように、
鼻の前に押し付けて匂いを嗅いだ。
兄の匂いなんかしない。安物の紙の匂いがする。
兄が書いたであろうペンのインクの匂いもした。
それも安っぽかった。

ただ、私はこれから何度もこの匂いを嗅ぐんだろう、
手紙が届く度にこの短い言葉が書かれた紙を取り出し、
まだしりとりが続くんだと判った事実に喜ぶのだろう。
これが、兄が決めた今後の『規則』なんだと私は察した。

手紙が届くには時間がかかる。
関東から関西だと大体二日。長いと三日。
兄からの手紙に興奮して30分後にポストに返事を突っ込もうが、
それでも届くのに最低二日はかかるのが日本の郵政で、
兄が郵便を受け取って最速で返事を出してくれても更に二日、
合わせて四日はかかる計算だが、
そんなに物事は都合よくいかないものなので、
恐らく、最低でも一週間はかかる。

それが判ると逆に気が楽になる。

人間てのは不思議なもので、
『最速』を要求してしまいがちである。がちではないか?
例えば早くて一日で出来ると言われれば、

「じゃあそれで」

と注文してしまわないか。
例えばラインで連絡して一日経っても既読が付かなければ、

「なんで読まないの!」

とイライラしてしまうのではないか?

私はそうだった。
兄の側にどんな事が起こってるのか知らないのを良い事に、
なかなか返事が返って来ない時に怒ったりもした。

けれど手紙には時間があった。

相手の返事に何日もかかる事が前提で、
兄からの返事を待つ間に、
もうこのままやりとりが途切れちゃうかもと思う事もあった。
それで兄からの手紙がちゃんと届いた時の私の喜びと言ったら、
皆さん、想像できるだろうか。
脳味噌から得体のしれない快楽物質が出た人間の顔面は大層気持ちが悪い。
鏡で実物を確認した私が言うんだ、間違いない。

ただ、私自身少しずつ変わっていったのは事実だ。
少なくとも兄からの返事に四日を費やす環境に於いて、
様々な人生の要素が食い込むように思考を占拠していった。

今後の進路、就職先、恋愛もそうだった。
大学とは本当に色んな人間が集まる場所で、
こんな私でも好きだというもの好きな男が現れた。
彼の凄い所はその意思表示をちゃんとした事だ。

相手に好きだという気持ちを伝えるのは心臓を取り換える程の勇気がいる。
別大学へ進学したが連絡を不思議と取り合う神田女史からそう教えられ、
あ、教えられたのは高校時代の事ね。
その事を教えられた私は彼が大学の帰り道に告白してくれた時、
なんとまぁ、私なんぞに大変な事をと申し訳なく思ったものだ。
夕暮れも落ちた夜の始まり、
車道を行き交う車のライトが目に煩いなか、
やや細い目がじっとこちらを見続けるのだ。

なんでこんな事が起こるんだろうと思ったね。

私は兄としりとりをして官能を覚える女、
おしりが『る』で終わる言葉を貰えば脳髄が痺れる特異体質なんだけど、
そんな私を好きになるなんて、
一体私の日頃の何を見て恋とかいうトランス状態に陥ったんだろうか。
しかも告白なんて大変な事を。
きっと今彼の心臓は強度臨界寸前で換装が必要な筈。
だって神田さんがそう言ってたもの。

「俺本気だから」

彼がそう言ったのは、
私がそんな事をうだうだ考えて彼の事を見つめ返している時だった。

「判った、宜しくお願いします。」

それが私の返事だった。
ポンと適当に口から出たのではない。

本気とは人間間に伝染していくものだと私は思っていて、
誰かが本気になって取り組むと、
周りの人間も過熱していくと思っていた。
これは必ずしもそうではない事を後の人生で私は学ぶのだけど、
この時は少なくともそう信じており、
彼の恋愛に対する本気が私に伝染して、
『あの時』の兄の心のうちが何か判るのではないか、
という考えに至ったのだった。

その報告を受けた神田さんはそりゃもう驚いていた。
正直私はなんで神田さんと連絡を取り合ってるのか判らない。
多分神田さんも同じような気持ちだと思うのだけど、
お互い不思議と音信を途切れさせず、
四季の変わり目、何かの節目等に必ず連絡をしあっていた。
そんな中私の恋愛騒動である。

「人間生きてたら色んな事があるもんだ」

との有難い総評を神田さんから頂き、私も私で、

「これも何かの縁、誠心誠意対応させて頂く所存」

なんて会社の取引先へ送る様な文面を打っていた。

とにもかくにも、
その彼、名前を尾崎君というのだが、
私の人生初めてのお付き合いが始まった。
別に見栄を張る趣味も私には無かったので、
誰かと付き合うのは君が初めてだ、
恋愛に関する悉くを全く慣れてない、申し訳ないと伝えると、

「恋愛に慣れなんてないよ。
 この世の全ての人間が違う人間だから、
 付き合う相手が変われば全てが初めてだよ」

と尾崎君が言ってくれた。
その事を神田さんに教えると、

「本当その男大切にしな」

と短文を送り付けられた。
我が高校一のモテ女が言うのだから間違いない。

よし、じゃあ大切にするかぁ、と思っていたら、
尾崎君の方が私の百倍大切にしてくれるもんで、
気恥ずかしいやら申し訳ないやら、
尾崎君の人間性の高さが全てを円滑にしてくれて、
一年、二年と付き合いも続き、
私はようやく世間の人間様並みの『感覚』という奴を身につけていった。

だがその一方、
私の机の引き出しに紙が深々と積もっていった。

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